今もずう~っと心に引っかかっている自閉症の彼は、たしか今年36、7歳になっているはず。
気懸りで、毎年お母さんと年賀状をやり取りして様子を聞いてきた。
彼は自閉傾向と診断され、知的には中度で言葉も出ていたし、目もよく合い自閉っぽい仕草、行動はあまり見られなかった。
通園施設の年長組で、坊主頭で目の大きいかわいい男子だった。
私が療育を開始すると間もなく希望してきた。
療育は基本、母子分離なので終わる時間に、お母さんが迎えに来るという決まりになっていた。
彼は療育に対しては素直で、学習の取り組みも良かった。
帰る時間が来て、出口まで彼を見送ると、お母さんは隠れるようにしゃがんでいるのでびっくりした。
私、「何やってんですか?そんなとこで!」
お母さん、「帰りがけ私を見ると叩いてくるんです。」
療育中の男子の姿からは予想もしない事だったので驚きました。
確かに他にもいましたね。
出迎えの母親に会った途端叩いたり、カバンを投げつけたり、わざとしゃがみこんで固まってしまう自閉症児。
自分の意に反したことをやらせた母親に怒りをぶつけている感じ。
スタッフが見ているとやらないので落ち着いて帰路につくまで見守るうち、彼のこの行動はなくなった。
彼は特殊学級(今の支援学級)に入学し、さしたる問題も起こさず経過。
しかし、半年たっても学校は彼になぞり書きをやらせるだけ、とお母さんは嘆いた。
「先生にひらがなもカタカナも書けるんですけど、と言ってみれば。」と提案。
四角いマスにきっちり角ばった字を書く子だった。
お母さんが学校にそれとなく言うと、突然学習内容が変わったそうな。
当時は障がい児が入学時にそこまで出来るとは思われていなかった。まずは身辺自立がモットーの時代でしたから。
生活面では大変ではなかったが、彼は一旦、何かを思い込むとそこにきっちり鍵がかかってしまう。執念深いというか。いつまでも根深く。
お母さんの話。
ある時、歯医者で虫歯を抜いた。
我慢して出来たは良かったが、歯医者は歯を抜く所と思い込んでしまった。
次に行った時は単なる処置だけだったのだが、歯を抜かない、ということが納得できず大パニックになってしまった。
患者の居ない時間帯を選んの診察だったので、医者も気にしなくていい、とお母さんに言ってくれた。
しかし、お母さんは息子のパニックに、情けなくて、情けなくておいおい泣いてしまったそうだ。泣いていると、息子がケロッとした顔で寄って来て言ったそうだ。
「お母ちゃん、どうしたの?」
お母さんはさらに情けなくなった、と。
療育の場面では決まった流れなので、思い込みの行動のパニックはなかったが生活場面では髄所に出ていたという。
新戚の集まりで、そこに来ていた年下の女の子を叩こうとして周りの者に止められた。それを根に持った。
その後、叩こうとして止められた女の子に会った時、誰も止める間もないほど、真っ先に叩きに行った、そうだ。
彼は5年生の時、転居,転校をした。
5年生といえば、少年から青年に差し掛かる思春期。
通常でも親が対応に苦慮する年頃。
お母さんにしてみれば、転居しても療育にはかよえる距離だったので、お母さんは療育に通わせるつもりだった。
しかし、彼は転居したら療育は終わり、学校も終わりと決めつけていた。
療育に来ても、車の中でお気に入りのぬいぐるみ(幼い表情)を抱いて降りようとしない。転校先の学校でも教室に入らず、入れると友だちを叩くので別室で個別授業になった。
中・高生になっても<学校は終わり>、の思い込みは変わらなかった。
強度行動障害
卒業後も受け入れてくれる施設はなかなか見つからなかった。
ショートスティに行った施設でもトラブルは起きた。
職員から暴力を受けてけがをした。
たぶん彼の暴力に恐怖を感じて反撃されたのかもしれない、とお母さんは語った。
その後、あちこちの施設で短期入所や作業所での経験を積んで、
30過ぎてようやく落ち着いてきた、とお母さんの年賀状に書いてあった。よかった。
彼の<思い込み>の扉には鍵がかかって、根深さ、執念深さに変質してしまう傾向を持っていたのだろうか?
あの当時は脳科学が爆発的に進化する前だった。
医療、医薬も今日ほど開発されていなかった。
もし、彼が今の時代の自閉症であったら、きっと合う薬をみつけられるだろう。
もしかしたら違う診断がつくかもしれない。
お母さん・家族には長くつらい道のりではあった。
彼自身も辛く、苦しい年月を過ごした。
とにかく落ち着いてきてよかった。