私が自閉症に最初に会ったのは45年前だった。
長男の友達の弟が自閉症だった。当時2歳。
お母さんは自閉症の対応に戸惑い、涙していることが多かった。隣に住んでいたので私も度々様子を見に行ったが知識があるわけでなかった。
そこで私は二つ目の大学に行き、障害児の勉強した。
その当時、自閉症の原因は様々憶測され、母親の育て方の所為にされたこともあった。
治療療法も受容がいいと言われたり、行動療法、オペラント療法、キレーション療法・抱っこ療法・・・etc.めまぐるしく出て来て親を迷わせた。
自閉症のネーミングも様々変化した。(障がい児について学んだ大学の児童精神医学のテキストには小児分裂病という単語もあった。)
<学習障害>なる病名が出てくると、言葉のある自閉症の親は子どもを学習障害と言いたがることもあった。
ADHD(注意欠陥・多動性障害〉や高機能自閉症(アスペルガー症候群)が一般化してくると自閉症スペクトラムで一括りにするようになった。
自閉症というネーミングになじまないタイプもいることから、さらに広い発達障がいという括りになった。
教育現場ではその方がやりやすのかもしれない。
私が療育を始めた頃は、幼児期は症状が変化するので、公的機関で検査してもはっきりとした診断名が出されず、グレーの子は自閉傾向と言われることが多かった。
彼も保育園に在籍中、そう診断された。
園では多動でトラブルメーカーだった。
療育に来た時は年長児だったが、面接すると自閉性はなく、ADHDが主症状だったので、いずれ落ち着くだろうと母親には小学校は普通級への入学を勧めた。
しかし、お母さんは保育園でトラブルをおこす度、謝り続けることに疲弊していた。
それで学区外だが評判の良い特殊学級を探し、入学させた。
彼のレベルでは特殊学級(現在の支援級)は楽すぎた。
入学したての頃は遊びの多い特学のことを喜んで、自慢げに話していた。
こばとの療育の夏合宿で、一緒のグループの友達が自分より自閉症状があるにもかかわらず、普通級に行っていると知り何かを感じたようだった。
彼は自分の特学のことを言わなくなった。
そのかわり同年齢の子に、普通級と特学のどちらに行ってるのかを聞きたがった。
こばとの療育には普通級に入っている子も多数来ていた。
自分より喋れないのに普通級?という思いが彼の顔に出ていた。
彼は障がいのあるクラスメイトを思いやると言う所まで心が育っていなかった。
学校のクラスのなかで自閉症児を見下したり、からかったりすることがあった。
なので先生からはそんな彼の態度は嫌われ、疎まれた。
走れば速く、運動もよくでき学習力もあったがクラスの雰囲気から浮いていた。
3年になると彼は「普通級に行きたい。」と言い出した。
普通級に行けば普通にしゃべれる相手もいる。
しかし、母親も特学の先生も今更無理!と取り合わなかったが、彼があまり望むので3学期だけ行ってもよい、ということになった。
彼は喜んで、勉強も頑張った。
しかし如何せん、3年ともなると学習の差は大きかった。
療育は週一回、国語・算数が主だったし。
3学期の終わりに母親からも特学の先生からも「ほらやっぱり無理だったでしょ。」と言われた。
彼が普通級を継続するためのサポートはどちらからもなかった。
それから彼は普通級に行きたいと言わなくなった。
そして、それまで療育中の学習に文句を言っていた彼は文句を一切言わなくなった。
普通級の子はみんな勉強してるんだ。そう感じたようだった。
中学校は比較的レベルの高い支援学級に行き、療育はやめて受験の塾に行った。
高校は支援高校に行ったが、当時流行っていたパソコン教室にも通い検定も受けた。
その後パソコンのスキルで東京の中心部にある某大手の特例子会社に就職した。
就職して間もない頃、
彼は仕事帰りにかって療育を受けた、こばとの事務所に立ち寄ることが何度かあった。
仕事を終えて、事務室に戻ったなじみの若いスタッフ達としばらく話をした。
その話はいつも小学校の時の話だった。
「あんなこと言うなんて、先生ひどいよね。」と彼は何度も言った。
「それは辛かったよねぇ。」と若いスタッフも話に付き合った。
何回か事務所に立ち寄って、小学校時代の辛い気持ちを吐き出し切ったのか、その後はぱったりと来なくなった。
今の時代なら、彼のようなタイプに対しても理解が広まってきているし、サポートも十分受けられただろう。
あの当時、ADHDは居場所が中途半端だった。
引きこもりになっている人もいるのではないか。
彼はまじめに努力して社会で自立した。
今、親元の近くで親元を離れ一人暮らしをしている。