2歳過ぎても言葉がなかなか出てこなかったり、
出ていた言葉が消失していて、アレッと思う不安。
胸の中にザラッとしたものが広がる感覚は本当に苦しいものがあります。
言葉が出ないという現実を受け入れても、心の片隅で奇跡が起きないかと期待する気持ちがどこかにあります。
私も療育しながら、信念は信念として、ありえない奇跡を何度も夢想しました。
そこで思うのです。言葉がすべてじゃない。
前々回の<絵は口ほどにものを言う>でも書きましたが、言葉だけが内面の表現ではないのです。
歌もそうです。
人類の初めの頃の表現、コミュニケーションは<絵>や<歌>だったのではないか?
療育で言葉のない幼児を何人も受け入れていた頃、
「言葉はないけど歌は歌うんですよ。」というお母さんがいました。
それも一人や二人でなく。
たしかに、言葉がないにもかかわらず、声出しが鼻歌らしく聞こえる。
よくよく聞いてみるとそれがちゃんとしたメロディになっている。
リズムもあってる。
体のゆすり方も曲のリズムにのっている。
言葉と音楽は別腹とは思うけど、どうして言葉より音楽の方がインプットされ易いんだろうな。
オウム返し、1単語の往復、たどたどしい会話程度なのに歌は完璧という、自閉症中学生が何人もいました。
こばとの療育の一環の一つに、中学生の社会トレーニングがあり、そのプログラムにカラオケの活動がありました。
日曜日に中学生を十数名のグループにして、カラオケ店に連れて行きます。
安いカラオケ店で1時間、ドリンクバーはただ。
好みの合いそうなメンバーを4,5人ずつに分けて個室に押し込みます。
スタッフは1名ずつ、サポート兼見張り。マイクを離さないメンバーもいるので。
ボキャブラリーの乏しい重度の自閉症男子だからといって、幼稚な歌を選ぶのかと思ったらとんでもない。
会話は単語・一往復のやり取りで終わる重度の自閉症男子。
平井堅を歌わせたら完璧。
リズムも音程もばっちり。
あぁ、歌みたいに会話が出来たらなぁ。
ポルノグラフィティの「アゲハ蝶」を歌う子もいるんです。
社会トレーニングには自閉症だけでなく、ダウン症の中学生も連れていきましたが、その中の一人の女子は石川さゆりの「天城越え」を歌いました。
振りまでつけて、なりきって絶唱。瞠目。
流行っている時だったとはいえ、小田和正の「言葉にできない」を選曲したり、今井美樹の「プライド」を選曲したり・・・・。なんか切ない。
歌うことは彼らの内面の何かを吐き出させてくれるのかも。歌はいいなぁ。
追記
ADHDタイプの子は滑舌が悪かったり、どもったりする子が結構いますが、歌を歌わせるとどもりませんね。
通常の会話ではかなりどもるのに、サザンオールスターを歌う時は別人でした。
堂々と全身で振りをつけて、気持ちよさそうに。