療育中、アメリカから一通のメールが届いて驚いた。
もうすぐ2歳になる息子が<autism>と診断された。
2歳になった時、日本に帰るのでこばとに通って療育を受けたいという内容だった。
父親の仕事の都合でアメリカに滞在していて、どうして<こばと>の存在を知ったのかは聞かなかった。
ただ、お母さんの実家が千葉で、区が違うだけで<こばと>からそう遠くなかった。
(市外や千葉の南端から特急で通ってきていた子に比べれば近かった。)
2歳になると帰国し、すぐにお母さんと療育を受ける相談にやって来た。
2歳自閉症児は言葉はなかった。
おむつも取れず、おどおど隅っこにへばりつきたがり、多動性はない幼児だった。
大きい目からは涙がこぼれんばかりにスタンバイしていた。
話を聞くとアメリカでもずっと泣いてばかりだったという。診断は受けたが療育は受けないで帰国したとのこと。
涙目ながらアイコンタクトはよかった。
視覚認知はどの程度かなと、と思って簡単な課題をやらせてみた。
完璧だった。
いずれはアスペルガータイプになるだろう、と見通しをつけて療育を始めた。
4人の子どもに3人のスタッフで個別+小集団の雰囲気を持たせた幼児教室。
制作→体育→給食→集会の流れ。2時間。
始めの頃、彼は隅っこに隠れたがり、泣くことも多かったが認知面は高かった。
絵とことばの単語カードをやらせると言葉が出始めた。
トイレトレーニングもスムーズに出来ていった。
おとなしい、控えめな子で何よりも、手つきが丁寧だった。
文字・数字の覚え、書字も早かった。
2歳から療育したので、小学校入学前には、ひらがな・カタカナ、時計、足し算・引き算までマスターした。舌足らずではあったが日常会話は可能になった。
しかし「心の理論」は4歳時点でクリアできなかった。
言葉を字面通りに解釈するなど自閉っぽさあったが、素直で無垢だった。
小学校は悩んだ末、普通級に入った。
彼以外にも幼児期をアメリカで過ごして、就学前に帰国した自閉症男児・女児何人か療育を受けに来た。
医師や高級官僚の方の中には、子供が就学前に海外留学や研鑽をつまれる方も多いようだ。子どもの学校に影響ないように、という思惑からか。
子どもは2歳過ぎるころから言葉を獲得し始める。すんなりバイリンガルになればいうことないのだが、発達障がいの傾向のある子どもにとっては、確実な言葉を獲得しないまま帰国することも多いようだ。
涙目2歳児の場合は、何も療育を受けないで帰国したので、こばとの療育がすんなり入っていくことが出来た。
就学前に帰国した自閉症軽度の男子と、重度の女子の場合、言葉こそ少々出ていたが、やりたくない、むずかしいという感情表現が激しかった。
軽度男子は自分が出来ない、やりたくない課題のときは「ペーパァ~プリーズ!!」と大声で叫んだ。たぶん、引換でペーパーを貰っていたのだろう。
重度女子のほうはプライドが高く、自分でできない課題を見ると、顔つきが変わり
自傷になりがちだった。
年中でアメリカから帰国した言葉のない自閉傾向男子は、専門の療育は受けず幼稚園に通っていた。
「保育士さんが教えてくれた、ハオー、ハオー(ハロー、ハロー)しか言えない。」と
お母さん涙で言葉を詰まらせた。
それよりもお母さんに対する暴力がひどくて困っていた。
しかし、彼は自閉性は少なく知的にも高かったので文字を教えると、覚え言葉が
出て、イントネーションも普通だった。
言葉が出て自分の思いを伝えられるようになると、お母さんへの暴力は収まった。
彼は小学校は普通級に入り、2年生になると、僕は治った、と言って療育を止めた。
後後、お母さんに聞くと、彼の成績はかなり優秀だった。
人数的に少ないから何とも言えないが、あちらの療育は高圧的で抑え込みが厳しかったのかぁ、という印象を受けた。
私は自閉症の療育は<恐れて従う>のではなく<信頼して従ってくれる>ことが一番のねらいだ。2次障がいも防げる。
しかし、私は知っていた。
家庭でお母さんが子供を叱る時、「遠藤先生に言いつけるよ!」と言ってたことを。
追記
上記2歳涙目男子には帰国前に生まれた2歳年下の弟がいた。
彼は言葉も出ていて、知的にも高いADHDだった。
しかし、弟の行動は粗暴で、ひねくれた行動が祖父母の叱責を増大させていた。
叱られる度、弟のドモリは悪化の一途を辿った。これはまずい。
始めは来るのを渋ったが、なんとかこばとの療育に通わせた。
知的には高かったので、彼の出来ることを大いに褒め、滑舌を良くする練習をしているうちドモリは目立たなくなった。
彼は幼稚園でお天気博士と呼ばれて一目置かれるようになっていった。
今、アスぺ兄とADHD弟は高い所を目指して塾に通っている。