昔、と言っても昭和の半ば頃までは、
男の子は女の子より言葉が出るの遅いから心配いらない。
腕白・元気に走り回るのは子供らしい。(多動などとは言いませんでした。)
遊ぶと言ったら、外。テレビなどなかった。
おもちゃやおやつなどは手作り、かつシンプル。
そんなざっくりした子育て。(親も生きるのに忙しかった。)
しかし、今の時代は子育て環境が激変。
視覚刺激が多い。なにしろ物が多い。
手に取ればすぐに遊べるおもちゃ。とりこになるゲーム系グッズ。
食べ物もすっかり変わってしまった。ジャンクフードも多い。
嗜癖につながりやすい、味や飲み物。
子どもの脳のつくられ方が昔とは全く違ってきている。
インプットされるもの、され方も違ってきている。
言葉が遅いと思っていても、言葉が出てくるとそれだけで安心してしまい、
行動や人との関わり方はそのうち変わるだろうと見過ごされがち。
しかし、今の時代は言葉だけでなく、
親は細かい観察、注意深い子育てが要求される時代になって来ているようだ。
ADHDは言葉が出てくると見過ごされ、療育のタイミングを逃してしまいがち。
注意欠陥多動の症状のために、注意されたり叱責されることが多くなってしまう。
いつも否定されると自尊感情が育ちにくく、2次障害も起きやすい。
注意深いお母さんがいた。
長男は検診や周囲の人からは様子を見ていてもいいのではと言われた。
でも、お母さんの目から見て、息子の行動は看過できない。
言葉は出ていたが集団に入れない。恥ずかしくて、ではない。浮いている。
指示に従わない、または指示を理解していない。注意が逸れ行動が逸脱する。
幼稚園入園までに改善したい、と療育を希望してきた。
東京都の豊島区から通うということだった。
(東京にもあるだろうになぜこばと?有名でもないのに。)
長男の下には1歳になったばかりの妹がいた。
お母さんは赤ちゃんをバギーに乗せ、電車で彼を連れて通ってきた。
彼は自閉性はなかったので幼児学習グループからスタートさせた。
同じぐらいのレベル、年齢の幼児四人にスタッフ二人。
(こばとでは、友達を意識させたいため一対一の指導ではなく、スタッフも固定化しなかった。)
彼が療育をうけていたあの日、
2011年3月11日金曜日2時46分も指導中だった。
彼ら4人の他に1時30分から療育の年長グループ6人も来ていて、別の教室で3人のスタッフの指導を受けていた。
3時半から療育の小学生グループはまだ来ていなかった。
指導のさ中に激震が起きた。
訓練通り子どもを机の下に潜らせ、揺れが収まってから外に出た。
パニックにはならず子ども達はスタッフの指示に従った。ちゃんとしていた。
教室は古くてぼろい建物だったがその割に被害は何もなかった。
スタッフが教室に戻り、持ち物を持ち出した。
道路 (裏通りなので比較的安全)の端に並んで座らせ親の迎えを待った。
電車が止まって帰れそうもない親子は、車で来た人に分乗させてもらった。
渋滞また渋滞の道路を何とか掻き進んで、最後の親子を送り届けた、と
頼んだお母さんから連絡をもらったのは真夜中を過ぎていた。
本当に有難かった。
豊島区から来ていた親子3人は電車が止まって帰宅困難。赤ちゃんもいるし。
父親は東京都の職員なので災害対応に追われ、迎えどころではなかった。
その日はスタッフ全員が泊まり込んだ。
教室の中に親子3人が寝れるよう、体操用のマットレスを敷いたり、スタッフのコートやひざ掛けをかき集めて掛け布団にした。
エアコンをつけっぱなしにして、何とか泊まれるようにした。
近所に食糧、飲み物を探し求め、親子とスタッフ分はなんとか手に入れた。
とぎれとぎれの仮眠を取っているうち夜が明け、朝が来た。
こばとは線路のすぐ傍だったので、
いつもはうるさく思う電車の音が聞こえた時は本当に喜んだ。
豊島区からきている親子も帰る支度として駅に向かった。(こばとは駅から5分のところにある。)
翌日から間引き運転や、計画停電が続いた。
こばとは可能な限り、いつも通りに子ども達を迎えた。
いつもと変わら無ことが子どもを安心させるので。
豊島区の親子はその後もしばらく通い、プレ幼稚園が始まる時に止めた。
お母さんからは集団に適応できている。逸脱行動もなく、指示も聞けているので一安心だ、という連絡をもらった。よかった。