自閉症の世界

~自閉症の世界を知って、障がい児の子育てに役立てよう~

天真爛漫

前回書こうと思っていた、とびっきり明るいお母さんの話。

 

ちょっとその前にこばとの生い立ちを・・・ 

平成元年、こばとの一年目、

海岸の埋め立て地に取り残されていた、ぼろい海の家を時間借りしてスタートした。

その海の家はいくつかの団体が曜日、時間借りしていた。今で言うシェア。

 

海の家なので広い板の間、だが板が破れて地面が見える箇所もあるほどのぼろ屋。

誰がやったかわからないが、穴のいくつかは、みかん箱の板で応急手当してあった。

 

こばとをやる時は床の穴に子どもの足が落ちないようカーペットを敷いた。

時間借りなので、机も折り畳みの机を使って、終わったら片づけた。

福祉系の大学で障がい児教育を学んでいた学生3人に応援してもらった。

 

たちまち療育に通う子どもが増えたということもあったが、

シェアしている団体との折り合いがつかず、一年後、西千葉に引っ越しした。

 

10畳ワンフロア、安普請のビルとは言えない3階建の三階を借りた。

その後、子どもが増えたので、一階から三階までと隣のビルも借りて計5教室で

平成25年まで運営した。その後規模を縮小するために移転したが。

 

ちょっと、生い立ち話が長すぎたかな。

 

海の家から移転して5年目くらいの時だったと思う。

少し太めのにこやかなお母さんが2人の男の子を連れて療育相談に来た。

 

療育したいのは三才の弟君のほう。

お母さんに似てぽっちゃりしていた。

発語はまだなかったが、多動性はあまりなく、アイコンタクトもあった。

 

お母さんは自閉症と診断されたと言っていた。

それで七田式の教室に通わせた。カードでフラッシュというようなことを

やってもらっていたそうだが、

「なんか違う感じがするの。喋る気配はないのよねぇ。」

とお母さんはころころと涼やかな声を立てて笑った。

 

本当に屈託ない笑いだった。

 

一緒に来ていた兄は言葉があった。

自分を外した話が続くことに飽きたのか、兄はいきなり弟の頭に噛みついた。

お母さんと私はあわてて彼を引き離したが、彼の口にはひと房の髪の毛が・・・

 

「この子にもちょっと問題があって…。集団になじめなくて・・・。

脱走するわけではないけど、友達とかかわれなくて。」

 

お母さんには見慣れた兄弟の光景だったのか、あまり驚いた風ではなかった。

 

言葉のない重度自閉症の弟君の療育をスタートした。

視覚認知は良く、着席も続いた。

絵とことばのカードを使うと、言葉も出始めひらがなも覚えて、書けるようになった。

 

兄の方は普通学級と交流することを条件に小学校は支援級に入れた。

弟の療育の進み具合を見て、兄の方もこばとの療育に通わせるようになった。

 

定期的にいれていた面談では、兄弟ことを合わせて聞いた。

「家では2人は関わって遊んだりしますか?」と聞いた時、

お母さんは可笑しそうに、ころころと笑い声をたてて言った。

 

「二人でお腹を出して、腹相撲みたいなことをやるんですよ。」

 

確かに、兄も弟も太鼓腹というほどではないが、鏡餅風のお腹ではあった。

お母さんは子ども達の行動を苦にしているように話すことはなかった。

 

 

私は弟君も一人歩きが出来るように、買い物が出来るように、とアドバイスしていた。

お母さんも頑張って取り組んでくれた。

 

弟君にも買い物練習をさせ、一人でコンビニに行けるようになった。

足りるだけのお金をもらって、自分の欲しいボールペンを買いに行く。

ボールペンだけ。

ボールペンでただ、ぐるぐる白地が見えなくなるほど書きなぐるのが好きで

ボールペンの減りは早かった。

 

ある時、コンビニからボールペンではなく、買えるはずのないポスカという高い筆記用具とメモ紙を持って帰ってきた。

 

そのメモ紙には、

「ポスカは持ってるお金では買えない!、といくら言っても、ポスカを手放さないので持たせまました。不足分〇〇円をお願いします。」

 

と書いてあったそうな。

弟君のあどけないつぶらな瞳で、店員さんをじっと見つめて姿が目に浮かんだ。

 

その話をする時も、お母さんは心底面白そうに、あの涼やかな声でころころと

笑いながら話してくれたのだった。

 

お母さんは本当にいつもにこやかに子どものことを面白そうに話した。

困った顔を見せることはなかった。

太めでぽってりした体型も変わることがなかった。

 

兄の方は中学生教室、社会トレーニングにも通い、今はチョコレート会社に就職。

弟君の方は支援学校を卒業後、福祉作業所では働いている。

 

当たり前のように二人を受け入れていて、いつもにこやかだったお母さんの顔が

今もはっきり思い出される。

 

毎年、年賀状をくれるけど決まりきった挨拶文だけなのが何とも残念だが、

困ることは何もないあのお母さんらしいと言えば、らしいのかもしれない。

 

 

f:id:kobatokoba:20190614132318j:plain

食べる時以外はぐったり