100記事目になった。
大学の障がい児教育の教科書には載っていないような、自閉症の世界を知ってもらいたいな、と1月12日めからからブログを書き始め100記事目なった。
ブログは平成元年に始めたこばとの日々を思い出し、書き連ねてきたのだが、
記憶にフォーカスすると場面がありありと浮かんでくる。
自分で言うのもなんだが、視覚記憶はいい方で、場面の情景などけっこうリアルに浮かんでくる。
臨終の走馬燈が長すぎて、旅立ちにに時間がかかりすぎるのではないか、心配だ、とまわりに冗談を言っているくらいだ。
100記事目、区切りの記事だからやはり一番印象に残っている
出来事を書こう。
戦争体験者が戦争の記憶を風化させられないのと同様、私にとってあの夏合宿のあの日の出来事は今も全く風化することなく夏になると蘇る。
平成9年の夏合宿での出来事。
こばとを始めた頃はひと夏に一回だった夏合宿は療育に通う子どもが増えていくにつれていって増やさざるを得なくなった。
学年別に分けてひと夏に2回、2回が3回、3回が4回と増えていった。5回の時もあったが、さすがに1か月の間に5回の合宿はスタッフが持たなかった。
始めの頃、宿泊費の安いユースホステルを探して、県外によく出かけたものだった。
今思えば、よくもまぁ、大胆な恐れを知らぬ計画を立てたものだと思う。
・・・私もまだ若かった。
kobatokoba-kosodate.hatenablog.com
忘れられない出来事は平成9年、奥多摩にあるユースホステル2泊3日の夏合宿。
重度から軽度の自閉症とダウン症の小学校高学年と中学生、20数名のグループ。
スタッフはボランティアを含め8、9名ほどだったと思う。
公共の乗り物にこだわるこばとはJRの電車を利用して御嶽駅に行き、
そこからバスの乗り換え滝本駅まで行き、ケーブルカーで御岳山駅に行った。
ユースホステルは昔の旅籠や風で,部屋は増築したのか入り組んでいて畳部屋、
布団は自分達で押入れから出して敷くスタイル。
1日目は武蔵御嶽神社の周りを散策するなどして過ごした。
気が休まる時はなかったが、無事にスケジュールはこなせた。
事件は2日目に起きた。
2日目は全員、手回り品と水分補給を入れたナップザックを背負って
山歩きに出発した。
自閉症グループは疲れを知らずどんどん歩くが、少数のダウン症の子は遅れがち。
一旦山を下ってから、再び山頂にむかうのぼり坂の中腹に差し掛かっていた。
中腹には60センチぐらいの石段でできたつづれ折りの道があり、スタッフは子ども達を間にはさむようにして、一列になって山頂に向かって歩いていた。
先頭のグループは石段を登りきり、山の斜面沿いの細い道を歩き始めていた。
私は列の最後尾を、歩きの遅いダウン症女子の手を引いてまだ石段を登っていた。
その時だった。私の目の前2メートルぐらいのところでドスンという音がした。一瞬何が起きたのかわからなかった。
次の瞬間、石段のすぐ横の崖側の地面にうずくまっているのが子どもだと分かった。
「どうしたの!」と駆け寄って起こそうとした時、15メートルほど上の山道から
転落したあぁ!!と騒ぐ声が聞こえて来た。
転落し、私の目の前に落下したのは6年生の重度自閉症の男子だった。
私は即座に事態を理解して救急に連絡を取った。
なにぶん深い山の中,なかなか電波がつながらなかった。
上を歩いていたスタッフが顔色を変えて私のもとに下ってきた。
転落した男子は自閉症状が重く、とくに先走り傾向が多かった。
先頭を歩いているスタッフを追い越そうとして、崖側の崩れやすい土を踏んだそうだ。
しかも、真下に落下したのではなく、崖の途中に突き出た岩でバウンドした。
体育の前転のように、頭をかかえ体は丸まっていたと・・・。
階段わきの崖から彼を平らな所に移動させた。
墜落の衝撃で気を失ったままだった。
震えもあった。
救急隊に連絡がつくまでとても長く感じられた。
私はぶるぶる震える手で骨折はないか全身を触ってみた。
それらしい傷はなく、出血も見あたらなかった。
救急隊が來るまで、彼の耳もとで「大丈夫、もう治っているよ。」と
自分も震えながら囁き続けた。
彼が指示されたことを理解して、そのようにやってくれるんじゃないかと思って。
やっと連絡が取れ、ヘリコプターで救助してもらうことになった。
長くなったので続きは次回に。
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