自閉症の世界

~自閉症の世界を知って、障がい児の子育てに役立てよう~

家庭・療育・学校

 前記事は自閉症の子育てに、

父親が優しいだけではない真の参加を期待して書いた。

 

しかし、自閉症育てはそれだけでは十分でない。

なにしろ学校で過ごす時間は家で過ごす時間と同じくらい、

いやそれ以上に長いかもしれないのだ。

 

さらに、福祉重視の現代社会、放課後児童ディサービスも広まって、

家庭で療育する時間はさらに短くなっている。

トイレトレーニングさえ、外部任せになっている家庭だってあるのだ。

 

父親・母親以外の関わり方も大きく影響する。

 

それなのに、家庭、学校、療育機関(児童ディサービス、その他)

医療機関の間で自閉症の子どもについての情報が共有されない事も多い。

 

公的な情報共有の仕組みもない。

 

 平成元年にこばとを立ち上げた頃は、

障害児教育といえば身辺自立、生活単元が主流だった。

 

こばとがある駅側の、国立のT大学の障がい児教育は、生活単元学習の大御所だ。

T大学付属の支援学校では学習はやらない、ということで有名だ。

千葉の障がい児教育もその流れを多く汲んでいるいる。

 

こばとの着席させ鉛筆を持たせて学習からスタートすることなど、

異端だった

 

 療育を希望する子が年々増加していった頃のこと。

市内に障がい児教育ではベテランで有名な女性の先生がいた。

支援学級には越境したり、引っ越したりして重度から軽度までの障がい児が集まり、

学級には30人近い児童がいた。担任の先生も6,7人いた。

 

その支援級からこばとにも10名以上療育を受けに来ていた。

幼児期から来ていた子もいた。

 

しかし、子どもがこばとの宿題を学校に持って行ったり、

学校で教えていないことを勉強していると分かったベテラン先生は

プライドが傷つたのだろう。

 

こばとに来ている子どもの親とひざ詰め談判をして、

こばとをやめるように迫った。5人の子どもがこばとをやめた。

 

2名の自閉症の子どもは他校に転校してこばとを続けた。

残りの子どもの親は何を言われてもいい、とそのままこばとを続けさせた。

過去記事「俺の居場所」に書いた彼もその一人である。

 

kobatokoba-kosodate.hatenablog.com

 

 学校というところはプライドが高いらしい。

幼児期からこばとに通っていた、自閉症中度の男児と女児は同じ学校に入学した。

1年生になった時には、足し算・引き算も暗算できるようになっていた。

が、学校から数の概念がないから足し算・引き算はまだ早いと言われたそうだ。

 

お母さんが「数の概念ってなんでしょう?」と聞くので、

段階を踏んで教えて来たこばととしても

「なんでしょうね?」と言うしかなかった。

 

 あるお母さんがこばとでやっている課題を学校に持って行き、

学校でもこのような学習をしてもらえないか?と頼んでみたところ

先生の返答は

「ああいうところはお金を取ってやっているから、教え方がうまいんだよな。」

ということだった。

 

それを聞いた私は、

「学校の先生方も親から直接ではなく、間接的ではあるけれど、

お金を貰っているんじゃないですか?親の払った税金から・・」

 

情報の共有どころではないのが実情だった。

 

こばとに反発的ではなく関心を持ってくれた先生もいた。

 

幼児期から療育してきた重めの自閉症男子、小学校は支援級に入った。

お母さんの話

軽度の子たちが学習している時、重度の彼はまだ何も出来ないだろうと、

課題を貰っていなかったそうだ。

授業中、隣の軽度の子が簡単な足し算のプリントを床に落とした。

それを息子が拾って答えを書きこんだので、男の先生はびっくりした。

こばとではどのように教えているんだろう、参考にしたい。

とお母さんに言った。

 

男性先生はこばとまで見学に来た。このような先生は例外だ。

 

重度自閉男子だが文字が書けるのに、ずっとなぞりばかりやらされているので、

「字が書けるんですけど・・・」お母さんが言ったら、課題が変わった、という話。

 

それはまだいい方。

 

字は書けると言っても、はみ出さないでなぞれないから、字はまだ早いと

あっさり却下された、というお母さんの話もあった。

 

学校は一人一人合わせてというより、学校が用意したもので、

ということらしいが、いつまでたっても同じ、いうお母さんの嘆きも聞いた。

 

自閉症の能力や可能性に対して、まだまだ先入感や、偏見もある。

学校と家庭が理解と目標を共有できるようになれば

どんなにいいことか・・・

 

可能性の芽が伸びている時、自閉症育てがうまくいってるといえるのではないか。

 

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