自閉症の世界

~自閉症の世界を知って、障がい児の子育てに役立てよう~

偽平等

偽平等より、違っていていい!という流れ

 

こばとを開設した平成前半、30年以上前の風潮は

なんでも平等!平等!・・・で教育現場でも通信簿の評価の表記が変わり

差をつけない、差を目立たせない運動会や、横並びの発表会・・・

障がいがあってもみんなと同じ普通学級で・・・

統合教育は障がい児教育の望ましい形のように言われてもいた。

 

統合教育という思想に賛同、後押しする団体がいろいろあって

障害児の保護者も意を強くする人が多かった。

特殊学級(支援学級)や養護学校(支援学校)に入れるのは

保護者の側にもなんか差別されたような、

被害者的感覚がすくなからずあったのかも。

 

私は、こばとを始める前、臨時講師として学校に勤務していたことがある。

特殊学級(今の支援学級)を担任した時は、良い校長先生に恵まれた。

学級の障がい児達をかわいがってくれたし、好きなように授業が出来た。

 

私は全校集会がある時は、早目に7人の子どもを連れて体育館に行った。

右側の端が定位置だったので、そこに子供を座らせて全校生徒が集まるのを待った。

集会が始まると、校長先生はいつも全校生徒の前で、

座って待っていた我がクラスの子ども達を褒めてくれた。

 

その校長先生から聞いた話。

全盲の女児が、障がい児を地域の学校に入れる支援者団体の後押しもあって、

普通学級に入学した。

入学は出来たが、女児の点字教育支援の体制までは勝ち取らなかった。

入学後の教育は学校任せ、点字教育はなかった。

 低学年のうちは、子ども達との関わりあり良かったが、

 

点字教育をすることもなかったので、

高学年になる前に結果は明らかだった。

家庭と学校が協力し合うどころか反目しあった。

普通級入学を応援してくれた団体の手前、6年まで在籍した。

中学は盲学校に入った。失われた6年間。

子どもがかわいそうだったよなぁ。と校長先生は言った。

 

こばとにも似たようなケースがある。

 

4才の時からこばとの療育に通って来ていた先天性の筋ジストロフィー男児がいた。

 お母さんの言葉では4才になったらこばとに通わせようと決めていたそうだ。

 お母さんは養護学校(現在の支援学校)の先生だった。

 

男児の症状は重く、発語はアーのみ。

歩行はおろか立つことも出来ないので抱っこで移動。

こばと幼児教室の時の給食は彼の分だけキッチンばさみで細かくミンチ状にした。

あごを支えきれず口が開きがちで、涎が出たが飲み込むのは難儀だった。

 

こばと男児にえんぴつを持たせ、

はさみも持たせ介助しながら他児と同じように活動させた。

男児もやる気が出てきて、握る力がでてきてはさみで切れるようになったり、

鉛筆で弱々しいながらも、線をなぞることも出来るようになった。

 

男児の住む地域は障がい児も普通学級に、という活動が活発だった。

両親は彼を車椅子で普通学級に通わせることにした。

学校側もトイレなど出来るところはバリアフリーにしてくれた。

 

しかし、1度男児が学校で大便を漏らした時は、

お母さんが職場から呼び出されて、後始末をさせられた。

それからはお母さんは必ず家で排便させてから登校させた。

 

喋ることはできないが、友だちとコミュニケーションできるようにと、

お母さんは写真日記をもたせた。

学習面での学校側からの支援はなかった。

 

お母さんはこばとの面談でいつも嘆いていた。

学校の先生から、いつも男児がいることで、クラスの子たちが優しくなり

クラスの子ども達がいかに男児のためになっているかを褒める。

まとまりが出てきていると、喜ぶ話を聞かされる。

 

じゃぁ、自分の息子はどう成長しているの?

何かができるようになったという話は何もない!!

 

4年生の時、男児が布団の中で号泣しているのをお母さんは聞いた。

私が、男児が一番楽しそうにするのはいつ?

と聞いた時、お母さんは筋ジスの子ども達の集まる会に行った時だ、と言った。

 

卒業を待たず、肢体不自由の養護学校に転校した。

普通学級という場所の空間は共有したが、決して平等ではなかった。

男児のための支援教育はなかった。

 

失われた6年間の話はまだある。 

 

こばとを開設してすぐの頃

最重度自閉症だったが年長児男児の療育を受け入れた。

遠いと所からお父さんが車で連れて来た。

まだ、海の家での療育を始めたばかりで、

幼児教室は立ち上げていない時だった

 

男児は発語はなく、泣くときも声を出すことはなかった。

見ていても見えず、聞いていても聞こえず無の状態。

食べる時は手づかみだという。

 

鉛筆を持たせるどころではないので、

五感を刺激することから始めた。

いろんなおもちゃや遊具を使った。

しばらくしてクレヨンを持って手を動かすところまでいった。

 

ぐるぐる殴り書きのレベルではあったがクレヨンを取らせると、

いつも無彩色のクレヨンを手に取った。

黒、白、灰色、あぁ、この子はまだ色の世界を持っていないんだ。

でもクレヨンで何か書きなぐるだけで進歩。

 

男児も小学校入学を考える時期になった。

父親は男児を普通級に入れる予定だと言った。

何を考えているんだ、と私は思った。

最重度の自閉症を普通級入れたのでは重度化する。

 

私は普通級に入れるのであれば療育は打ち切る、と言った。

自閉症児は、学校、家庭、療育、医療が協力し合って育てられるものなのに、

長時間過ごす学校教育の部分がすっぽり抜けてしまったんでは・・・・

 

 

しかし、男児の住む地域は障がい児も地域の小学校に入れる運動が活発だった。

両親は男子を普通級に入れた。

こばとはやめてもらったが、心配なので様子を聞いた。

1年の担任は若い男性教師で、男児の事を教室の中にいられるように、

世話はしてくれると言った。

高学年になる頃は多動になり、学校中を動き回るようになった。

中学は養護学校(今の支援学校)に進んだ。

養護学校に入って間もなく癲癇の大発作をおこした。

症状が治まったが、家庭では面倒見きれなくなり、

男児を施設に入所させたとのこと。

年賀状で連絡が取れたのはその時までだった。

 

 

重度の自閉症は模倣が苦手だ。

ミラーニューロンが欠如か、未発達のために真似る気持ちがない。

だいたい人の動きを目で追うこともない。

普通学級の中で、周りを見て自然に覚えていくだろう、とうのは甘い考えだ。

しかし、よいことは模倣しないが、

何故か悪いことはすぐ真似できることがある。

 

良いことをするには努力がいるが、悪いことをするのは努力なしで出来るからかな

 

 

場所を共有したからと言って子どもが真に平等になるわけではない。

1人1人に合う教育がないと大切な年月が失われていく。 

 

 特別扱いしないで

差別しないで

そう言って放任されてしまえば、付けを払うのは子ども。

 

偽平等ではなく

 みんな違ってみんないい、という風潮がでてきたことは嬉しいことだ。

そして、その子その子に合う支援教育があればなおよし、だ。

 

 

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