自閉症の世界

~自閉症の世界を知って、障がい児の子育てに役立てよう~

誰のための選択?

学校時代の出口の先から続く長い人生

 

 

 こばと総武線の線路沿いにあって、

 電車の音は良く聞こえる。

 普段は気にならないが、このところの電車の音がやけに、

 2011年3・11の翌日からの電車の音に似ている感じがする。

 軽い感じ、乗ってる人が少ないから、かな?。

 

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30年以上聞き続けている電車の音

 

前回記事で、重度障害を持つ子がが普通学級に入って

場を共有はしたはいいが、その子に必要な特別な教育放されなかった例を書いた。

 

当時の「誰もが地域の普通学級で学ぶ」という統合教育(インテグレーション)

は失敗という結果になったのだが。

 

しかし、自閉自閉症スペクトラムの中でも言葉のある発達障がい、

模倣する能力を持っている軽度の自閉症児が

普通学級に入るのは悪いことではない。

当たり前のことを当たり前に自分でする。

悪いことは悪い、やっていけないことはやってはいけない、を

周りの子どもの集団エネルギーから感じ取って

自己抑制力を身につけていく事が期待できるからだ。

 

しかし、いつ学校環境を変えるべきか否かの見極めは必要だ。

 

4年~5年は少年から青年へのターニングポイント。

定形発達の子ども達は精神面も身体面も大きく変わってい行く。

批判精神も旺盛になる。

自己理解が進み自分と他人を比較するようになる。

それまで無邪気に遊んでいた発達障がいの子どもに対しても批判的になる。

自分たちに許されないことが、あいつだけなんで許されるんだ。

そして、その特別扱いを納得はしないが、受け入れると上から目線になる。

 

発達障がいの子どもも、その年頃になって反抗的になるのは同じだ。

身体的変化が出てきて、気持ちもいらだつことが多くなる。

学習面でも差が出てくると、自分の居場所でないような気になってくる。

 

アスペルガータイプの場合は、学力的に差がなかったり

受身的、愛されキャラだったりすると大過なく大学まで進む子も多いが、

問題は知的に遅れがあって、

学年の学習に付いていていけない子どもの場合である。

 

こばとの療育期間中にも、親や身内の考え、世間体を忖度して

普通高校まで進んだ軽度の自閉症男子が何人かいた。

 

今年、アトリエカフェのオープンの日、

早速、お母さんと一緒に訪れてくれた彼も、私にとって残念な1人だ。

 

こばとには特急で通って来ていたほど、

彼の生家は農山村、人のしがらみも多い地域だった。

教育者一家、祖父母も両親も。

兄姉も大学卒業後は教員になった。

 

幼稚園は<自然の中での自由保育>をモットーにする園。

彼の兄、姉、にとっては主体性、創造性も伸びたとお母さんは喜んでいた。

が、自閉的傾向もあるADHDの彼にとっては規律を守れない、

多動、集中が続かない、先生の話が理解できない。

自由で自分ペースの生活になった。

 

年長の時これでは・・・ということでこばとの療育に来た。

着席が続くようになり、読み書きが出来るところまで行き

普通級に入学した。

学習面では算数のくり上がりくり下がりなど、どうにも入りにくかった。

こばとでは学校の進度ではなく彼のペースで学習を勧めた。

 

中学校も当然普通級に進んだ。

しかし、中学2年の時は精神面がくずれ粗暴になったので

薬を服用に頼らざるを得ない時もあった。

 

高校は遠方であったが普通高校に入学した。

当時は定員割れの高校もも多かった。

高校は3年間、真面目に通い通した。

定形発達の高校生であれば学力は低くてもバイトすることもあったろう。

 

卒業後はさすが就職という選択だったが、

高校では支援学校のカリキュラムにあるような職場実習はなかった。

働くという経験がなかった。

 

 

働く意識がないと言われ、授産所(現在の就労支援事業所)に行ったが、

仕事が終わっていないのに、「もう帰っていいか?」などと言ったので、

授産所のレベルでもないと言われ、

小規模作業所からスタート、働くという意識を持たせることにしたのだった。

 

オープンカフェ出会った時も、福祉作業所なので給料というほどの

賃金は得られていない、とお母さんは言っていた。

高校卒業後、連絡取り合って出かける友だちもいないので、

休日には、お母さんの山登りグループに参加する程度。

本人はグループホームに入りたいと言っていたが、

自身の収入が問題となるということまで理解していない。

 

 

 過去記事「偏食」で取り上げた

喉から手が出そうになっても、

こだわりから大好きなから揚げを食べなかった男児

前述の男子と同様の経路を辿ることになってしまった。

 

やはり、祖父母の代から教育一家で

教育界のトップにも上り詰めていた。

保育園の時から、言葉の遅れ、多動があったので

幼児期からこばとの幼児教室に療育に通って来た。

 

小学校は普通級以外の選択肢は考えていないようだった。

基礎的な学習は出来たが、学年の進度に合わせるのは難しかった。

自閉性もあり、中学校は普通級では厳しいのでは、

と話したが、中学も普通級で通した。

 

中学校は特殊学級の選択肢はなかったのだろう。

前述の男子と同様、中学2年の時、

不適切行動が多くなって、トラブルも増えた。

保健室登校の時もあった。

しかし何とか卒業まで凌いでで高校選択となった時、

低学力でも受け入れてくれる高校に進学させた。

小学校や中学校ほど細かいことまで言われないので

本人にとって楽しいだけの3年間だったようだ。

 

このままでは社会に出れない、と危機感を抱いたお母さんが

父親、身内の反対を押し切って障害者職業訓練センターに通わせることにした。

しかし、そこでの訓練期間を終了しても働く意識・姿勢は作られなかった。

ハローワークの障害者訓練機関のキャリアセンターと言う所に

 

2年も通ったが一般企業に就労するところまで育たなかった。

本人は追い出されたと言っていたが、

打ち切りになり、今は福祉作業所に週何日か通っているそうだ。

彼にはたまに会うことがあり、会うと

教員になった兄と姉の事を得意そうに詳しく話す、自分の事よりも・・・

 

彼も、前述の彼も

中学生の時はこばとの社会トレーニン通っていた。

働くという意識の臨界点というのも・・・あるのかもしれない。

 

 

知的障害を伴う自閉症青年は働くという意識もなく、職業訓練も無いままに、

卒業と同時に社会に投げ出されてしまうと

あれほど親は普通にこだわっていたのに、

重度知的障害の人達と同じ場所で働くしか選択肢がなくなることもある、

 

<普通>の環境から切り離されてしまうと、

横のつながり、友だちや同窓の集団からも離れてしまいがち。

余暇をどうすごせるか、社会に出る前に考えてみる必要がある。

 

学校選択は本人がどんな人生を歩むか想像して、本人主体で考えたいもの。

 

学校卒業後の人生は長いのだから。

 

 

 

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