自閉症の世界

~自閉症の世界を知って、障がい児の子育てに役立てよう~

場面・対人格差=使い分け

いつでも、どこでも、だれとでも

 

過去記事に、

こばとの療育に通っていた自閉症男児

幼児教室で提供する給食は一切口にしなかった、という話をのせたことがある。

 

食べると聞いていたので、幼児教室の給食メニューで出したが食べなかった。

喉から手が出るほどの大好物であっても、

口の端からよだれが垂れていても、

家では食べる、が場所が変わったら食べない。

 

食べなかったというと、お母さんは、えぇーっ、と驚いた。

 

 

自閉症児には対人格差、場面格差が結構ある。

ここでは出来るが他所ではやらない。出来ない。

この人とは出来るが、他の人とはやらない、出来ない。

 

場面格差、対人格差とはちょっと違うが、

ミラーニューロンの欠如によるものか、模倣の意識がないために

再現できない、やらないということもある。

 

ハッキリした言葉ではないけど

「発語はあります。」、というお母さんも多い。

 

誰かに向かってではなく、独り言のように自発的に発語する。

 遊んでいる時など、近くにいる人の耳にもそれと分かる単語が聞こえる。

近くにいた大人は、「ほらっ、今言ったよねっ。」と

お互いに確認したりする。

「うん、確かに言った。そう聞こえた。」というので

その単語をもう一度言わせてみようとするが、言わない。

 

たまたま、ぽろっと出たが、再現はしない。

「もう一回言って!」と言わせようとすると、そっぽをむく。

独り言で言ってるなめらかなイントネーションの発語は

言葉とは言い難く、幻の発語になってしまう。

 

また、検査などで「 両足でジャンプはできますか?」と聞かれ

「えぇ、ピョンピョン良く跳んでます。リズミカルに。」

と、お母さんは答え、子どもに向かって、

「ピョンピョン跳んでごらん!」とお手本を見せる。

子どもは跳ばない。跳ぶ体勢にならずフラフラ動いてしまう。

「その気になれば跳べるんですけど・・・」とお母さんはいう。

 

 

常同行動のピョンピョン跳びは。

模倣でさせようとすると、しない、しらんぷりする。

意図的には再現されない。

 

しかし、上述のような例はミラーニューロンが回復してくると

オウム返しになったり、逆さバイバイになったりして 

格差の頑なさはなくなってくる。

 

 

 

 

一方、自閉症児本人の内部に頑な対人、場面格差を持っている時はやっかいだ。

ある場所、ある人とはやるが、

場所、人が変わるとあれ~っ?と思うほどやらない。できない。

 

 

過去の療育中、お母さん方からいろんな話をよく聞かされた。

 

学校の子どもの級友に、先生の手を焼かせる生徒がいた。

その子のお母さんは、先生から学校での様子を聞いて、

 

「家ではちゃんと着席して学習もします。

良く指示にも従うし、他害行為もありません。」

 

学校の先生の方では、あれっ?おかしいな。

 学校とは別人のようだね、友達にも他害行為が結構あって、ガードに気を使う。

学習中ふざけたり、いい加減だったり、やる気がないような態度。

お母さんの言ってるのとずいぶん違うよね。

 

何事も手を抜かないようにみえるお母さんは、

「学校の先生方は舐められているんじゃないですか?」といらいらする。

学校の先生方の教え方、対応が悪いのでは・・・

学校とお母さんの関係は反発しあい、険悪なムードになってくる。

 

 

 

お母さん方の話を聞いて自分なりの感想をいうこともある。

 

考えられることは、

学校の先生にボスとしてのオーラがなく、

学級全体を統率で出来ていない。

先生同士の生徒対応に一貫性がない。

生徒を公平に扱っていない。舐められえてもスルーしてる。

なども考えられるが、

 

もう一つ考えられることは、

家庭でのお母さんの抑制が強すぎ、家庭という集団の中では

絶対的なお母さんに従順にしたがうが、

お母さんのいない所ではタガが外れやすい。

学校は息抜きの場所になって、別人のようにふるまう。

学校では先生が一番だと思わない。

 

お母さんの監視下ではちゃんとやるが・・・・

 

 

この考えはお母さんとっても学校にとっても

ストレートに納得しがたいことかもしれない。

ともすれば非難の応酬になりがちだ。

 

必要な事は家庭でのお母さんの抑制・ボス度を少し下げて、

学校での先生のボス度を上げて力のバランスを取り、

子どもの中の格差を均し

家庭でも、学校でも同じようにやる気持ちを

子どもに刷り込んでいく事が必要なのではないか?

 

 

あるお母さんが言っていた。

家庭、学校双方の努力があって自閉症の娘は

中学生の時は自閉の症状も気にならないくらいになり、

つまり普通っぽくなって、行動、態度も年頃らしく落ち着いたものなっていた。

 

 

ある時、娘を小さい時に通っていたディサービスの事業所に預けた。

迎えに行ったお母さんはびっくり仰天してしまったそうだ。

そこには、まるっきり昔のまんまのような娘がいたからだ。

年相応になって来たと思っていた娘は、

この場所では自閉症状を素のままだしていい所と認識していたのだろう。

お母さんはこんなにも場面格差があるのだ、とびっくりしていた。

 

 

 

 

自閉症の内部格差は場所だけでなく、人に対してもおこる。

この先生とはちゃんとやるが、あの先生の言うことは聞かない。

 人によって態度を変える。

 

 

平成時代こばとは大卒8名のスタッフを抱え、

1週間当たり150名ほどの子どもを療育していた。

その時でも、子供を担当制にはしなかった。

 

こばとではスタッフには、入社するとすぐ

子どもに対する対応、声掛け方、課題の進め方など統一し、

どの子の担当になっても、ぶれないやり方で療育出来るように研修した。

子どもが不安定でくずれて手に負えそうもない時は、

私がすぐ代わりに入った。

 

その日どの子を担当するかは私が決める。

なのでスタッフはこばとに通う全員の子どもの顔と生育を知ることになり、

子供もスタッフを選べない、どのスタッフにあたっても

変わらぬ態度で課題をこなすようになる。

 

 

 

まぁ、子供なので、あの先生が良いなぁ、とか

だれ先生(スタッフ)が好きだ、などと言うことはあるが、

先生が変わったからと言って態度が崩れることはない。

 

あの場所では出来る、あの人とは出来るなどとというのでは

出来る能力はあっても、社会では認められないだろう。

 

 

再現できない能力は信じてもらえない。

 

小保方晴子女史のスタップ細胞の事件は、

新型コロナウィルス感染拡大で、遥か彼方の記憶になってしまったかもしれないが。

再現出来なければ存在の証明はできない。

 

科学に限らず再現性は療育にも必須だ。

いつでも、どこでも、だれとでも

持てる能力を発揮できるように格差のこだわりを小さくしていくことも

療育の大事な目標だ。

 

社会で能力を発揮し、生き易くなるためにも。

 

 

しかしぃ~・・・

 よくよく考えれば、普通の大人にも、場面、対人で結構態度の

格差、使い分けは見られることなんだなぁ・・・・。

 

 

 

 

 

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中身を食べたい!!