自閉症の世界

~自閉症の世界を知って、障がい児の子育てに役立てよう~

蛹から羽化

 お父さんと療育相談に来た幼稚園年長になったばかりの彼は、

診断がつけにくいグレーソーンのタイプだった。

 

言葉は出ていたし、自閉症状も目立ってあるというわけでもなかった。

細目で目をそらしがちではあったが、アイコンタクトも取れている。

体をもぞもぞ動かすが多動・衝動行動というほどのものはない。

 

しかし、お母さんは息子の育て辛さは普通とは違う、と市の育児相談に通っていた。

彼の下に年子で生まれた妹がふたりいて、育児に余裕がなかったは確かだが。

 

お母さんの主訴は、とにかく彼は指示に素直に従わない。

こう言えばああ言う、という態度で何事も素直にやらない 。

その一方で自分の決め事を妹達にも強要する。

 

一番困るこだわりはトイレだった。

 

 おしっこが出たくなってもトイレに行きたがらない。

トイレをぎりぎりまで我慢する。腰をくねらせていても行かない。

周りの大人がトイレに行けば、と促すがもちろん従わない。

いよいよ漏れる寸前にダッとトイレに駆け込む。

 

 お父さんはドバイなどに度々行く商社マンであったが、帰国している時はお母さんのフォローを良くし、都合がつくと療育にも連れて来た。

 

 ある時、息子をおんぶして連れて来た。

トイレを我慢する息子を見かねて、おんぶしたのだろう。

背中におもらしされてしまった、と苦笑していた。

 

 男子は知的に高い方ではなかったが、小学校は普通級に入った。

学習もそこそこついていけた。

やはり問題はトイレだった。

 

お母さんから聞いた話。

学校でころころのウンチを漏らした。しかし先生には言わず、皆が教室に戻った後、

自分で昇降口の前にある足洗い場でウンチを始末し、パンツを洗ったということがあったそうな。

 

 こばとの療育中も<トイレ我慢こだわり>はなかなか解消しなかった。

そわそわから始まり、お尻もじもじ、腰くねくね。

スタッフは療育教室の一角にあるトイレの扉を開けて、いつでも彼が飛び込めるようにしておいた。

 彼のシャツの前をめくり上げると、既にちんちんをズボンの上に出してさえいた。

「なんでそこまでこだわるのかねぇ。」スタッフは失笑して首をひねるだけ。

 

2年生に上がるころには<トイレ我慢こだわり>も目立たなくなった。

 

家では言い訳が多く素直にしない、妹達に自分の決まりごとを強要する、のがお母さんの悩みだったが、学校ではあまりトラブルは起こさなかった。

むしろ自分より強いものに迎合するほうだったかも。

 

6年の時、お母さんは息子が書いた詩を読んで驚いた。

私にも見せたくて、彼に気付かれないようこばとの連絡帳にこっそり挟んでよこした。

 

そこには、卒業したら自分は今までの自分を脱ぎ捨て、全くの別人になる。

自分の過去を知らない人と、今までとは違う世界を生きる。

というようなことが書いてあった。

 

彼はこばとに通ってきていることを、誰にも知られたくないと言った。

 

それなのに、彼は中学生教室に通うと希望してきた。

 

こばとでは7,8人1グループで中学生教室と言いう療育をやっていた。

一般常識の学習、社会性、社会人になるための土台作り。

 

私は、

こばとに通っていることを友達に知られたくないんでしょ。だったら通わない方がいいよ。」

何度も言ったが彼は3年間通った。

 

 別人になりたかったが、一か所ぐらい幼児の時から気心の知れている場所で、素の自分のままでいられることも望んでいたのかもしれない。

 

 中学校時代のお母さんの悩み。

 

彼はリーダー格の男子の言いなりになる。

パシリをやってしまうこともある。

お母さんを心配させつつも無事に卒業出来た。

 

お父さんのようになりたいと言っていた彼。

大学にも入学したが自分に合う学科でなかったようだ。

 

今、30代の彼は自分らしく生きているだろうか。

 

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変身願望

五体満足なのに、一歳前からなんか育てずらい、

しっくりこないという子がいる一方、

 

一歳ぐらいまで特に他の乳児と違うとは思わなかった。

笑み返しもあったし、アイコンタクトだって普通だった。

一言、二言の言葉もあったし、指差しもした。

 

しかし、折れ線タイプは2歳頃にこれらが消失する。

 脳のシナプスの刈込が多すぎるのかも?・・・・。

 

自閉症は2歳前後から症状がはっきりし始める。

 

目が合わない。後追いしない。呼んでも反応しない。

泣くと長いし、寝ぐずりもひどい。睡眠のリズムが定まらない。

抱っこしても嫌がるように体を反らす。

 

 かと思えば、おとなしくて手がかからなかった。寝すぎるくらいだった、という子もいる。(寝すぎるというのも睡眠障害になるんです。)

 

 手のかからない、寝すぎるタイプの軽度自閉症女子は10歳過ぎた頃に、

 お母さんに「お母さんは私が赤ちゃんの時、お家に一人ぼっちにしていつも近所に出かけていたでしょ!」と非難がましく言ったそうだ。

 「そんなことあったかも。」と軽く流したが、図星だったので内心驚愕した、と話してくれたお母さんがいた。

 

 症状が出始めの2歳の頃は、重度、軽度の自閉症もアスぺルガーやADHDの子も言葉が出ていなかったり、多動だったりして正確な診断がされにくい。

 親へ問診や子供の行動観察などで、自閉傾向などど言われることが多かった。

 

 2歳8か月の時公的な療育センターで自閉傾向と診断され、その足でお父さんがこばとに子どもを連れて相談来た。(私もそういう相談には弱かった.すぐOK。)

 

子どもは発語がなかった。

しかし自閉の症状、仕草、目の使い方が出始めていた。

多動性はなく臆病な性格。

療育を開始すると自閉症ではあったが視覚認知は高く、集中力があり軽度だった。

 

また同じ頃、3歳の女の子も両親に連れらて面談に来た。

こちらも言葉がなかった、

しかしかなりの多動で、集中も短かった。絶えずよそ見をしていた。

 

男の子も女の子も言葉をしゃべるようになった。

男子は軽度自閉症、女子は知的には中位下のADHDとして成長していった。

 

 

 重度の自閉症自閉傾向の子ども達の療育はいろいろ研究され、工夫されて環境も平成時代に随分改善されたと思う。

 

 後回しにされたのはADHDタイプの子ども達だったろう。

 

 ADHDは喋り出すのは遅いが喋り始めると普通に喋れるタイプ。

人を傷つけるようなことを平気で言うが、自分が傷つくことには敏感。

 

根に持ちやすく、しつこくなりがち。

自覚しているかどうかは別に、嘘をついても平気だったり、言い訳が多く謝らない。。注意集中力が低いので、叱責・注意されることも多い。

感情の振幅が大きく、我慢の沸騰点が低いので度を越した行動をしがち。

 

次第に自己肯定感を持ちにくくなる。

 

成長するにつれて、他人を比較したり上下関係、強弱関係に敏感になっていく。

9歳ぐらいになると自分が回りと違う、と思われることを嫌がるようになる。

 

こばとの療育は普通の塾とは違う。

通う子どもたちも普通とは違う。たとえ、勉強は自分より出来ても。

それを友達に知られるのは嫌だ。

自閉症の子ども達にはあまり育たない感情が芽生えてくる。

そして、療育を止めたいと言い始める。親は止めさせたくないと思っていても。

上記の自閉症男子は嫌とも思わず、療育を続けたが,ADHD女子は5年生で止めた。

 

私は本人の気持ちを尊重しよう、と言った。

 

 

 彼女は普通の高校に進んでいるが、こばとに通っていたことがばれるんじゃないか、などと思わず、療育に通ったことなど忘れて、自分に自信を持って生きて欲しい。

 

ADHDの子の思い出はありすぎる。

次回も書くつもり。

 

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にんじんを盗み食い。

 

彼我の違い

療育中、アメリカから一通のメールが届いて驚いた。

 

もうすぐ2歳になる息子が<autism>と診断された。

 2歳になった時、日本に帰るのでこばとに通って療育を受けたいという内容だった。

 

 父親の仕事の都合でアメリカに滞在していて、どうして<こばと>の存在を知ったのかは聞かなかった。

ただ、お母さんの実家が千葉で、区が違うだけで<こばと>からそう遠くなかった。

(市外や千葉の南端から特急で通ってきていた子に比べれば近かった。)

 

 2歳になると帰国し、すぐにお母さんと療育を受ける相談にやって来た。

 

2歳自閉症児は言葉はなかった。

おむつも取れず、おどおど隅っこにへばりつきたがり、多動性はない幼児だった。

大きい目からは涙がこぼれんばかりにスタンバイしていた。

 

 話を聞くとアメリカでもずっと泣いてばかりだったという。診断は受けたが療育は受けないで帰国したとのこと。

 

 涙目ながらアイコンタクトはよかった。

視覚認知はどの程度かなと、と思って簡単な課題をやらせてみた。

完璧だった。

いずれはアスペルガータイプになるだろう、と見通しをつけて療育を始めた。

 

4人の子どもに3人のスタッフで個別+小集団の雰囲気を持たせた幼児教室。

制作→体育→給食→集会の流れ。2時間。

 

始めの頃、彼は隅っこに隠れたがり、泣くことも多かったが認知面は高かった。

絵とことばの単語カードをやらせると言葉が出始めた。

トイレトレーニングもスムーズに出来ていった。

おとなしい、控えめな子で何よりも、手つきが丁寧だった。

文字・数字の覚え、書字も早かった。

 

2歳から療育したので、小学校入学前には、ひらがな・カタカナ、時計、足し算・引き算までマスターした。舌足らずではあったが日常会話は可能になった。

 

しかし「心の理論」は4歳時点でクリアできなかった。

 

 言葉を字面通りに解釈するなど自閉っぽさあったが、素直で無垢だった。

小学校は悩んだ末、普通級に入った。

 

 彼以外にも幼児期をアメリカで過ごして、就学前に帰国した自閉症男児・女児何人か療育を受けに来た。

 

 医師や高級官僚の方の中には、子供が就学前に海外留学や研鑽をつまれる方も多いようだ。子どもの学校に影響ないように、という思惑からか。

 

 子どもは2歳過ぎるころから言葉を獲得し始める。すんなりバイリンガルになればいうことないのだが、発達障がいの傾向のある子どもにとっては、確実な言葉を獲得しないまま帰国することも多いようだ。

 

 涙目2歳児の場合は、何も療育を受けないで帰国したので、こばとの療育がすんなり入っていくことが出来た。

 

 しかしアメリカで自閉症の診断をうけ療育も受けた子もいた。

就学前に帰国した自閉症軽度の男子と、重度の女子の場合、言葉こそ少々出ていたが、やりたくない、むずかしいという感情表現が激しかった。

 

 軽度男子は自分が出来ない、やりたくない課題のときは「ペーパァ~プリーズ!!」と大声で叫んだ。たぶん、引換でペーパーを貰っていたのだろう。

 

 重度女子のほうはプライドが高く、自分でできない課題を見ると、顔つきが変わり

自傷になりがちだった。

 

 年中でアメリカから帰国した言葉のない自閉傾向男子は、専門の療育は受けず幼稚園に通っていた。

 

「保育士さんが教えてくれた、ハオー、ハオー(ハロー、ハロー)しか言えない。」と

お母さん涙で言葉を詰まらせた。

 それよりもお母さんに対する暴力がひどくて困っていた。

 

 しかし、彼は自閉性は少なく知的にも高かったので文字を教えると、覚え言葉が

出て、イントネーションも普通だった。

言葉が出て自分の思いを伝えられるようになると、お母さんへの暴力は収まった。

 

彼は小学校は普通級に入り、2年生になると、僕は治った、と言って療育を止めた。

後後、お母さんに聞くと、彼の成績はかなり優秀だった。

 

 

人数的に少ないから何とも言えないが、あちらの療育は高圧的で抑え込みが厳しかったのかぁ、という印象を受けた。

 

 私は自閉症の療育は<恐れて従う>のではなく<信頼して従ってくれる>ことが一番のねらいだ。2次障がいも防げる。

 

しかし、私は知っていた。

家庭でお母さんが子供を叱る時、「遠藤先生に言いつけるよ!」と言ってたことを。

 

追記

上記2歳涙目男子には帰国前に生まれた2歳年下の弟がいた。

彼は言葉も出ていて、知的にも高いADHDだった。

しかし、弟の行動は粗暴で、ひねくれた行動が祖父母の叱責を増大させていた。

叱られる度、弟のドモリは悪化の一途を辿った。これはまずい。

始めは来るのを渋ったが、なんとかこばとの療育に通わせた。

知的には高かったので、彼の出来ることを大いに褒め、滑舌を良くする練習をしているうちドモリは目立たなくなった。

彼は幼稚園でお天気博士と呼ばれて一目置かれるようになっていった。

 

今、アスぺ兄とADHD弟は高い所を目指して塾に通っている。

 

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今の世界に生きるためには

 自閉症児を産み育てたお母さんの中からこんな言葉を聞いた。

 

 望んで授かった子供なのに、出産が始まる前、と何故かとても悲しくて、涙が止まらなくなり、苦労する予感に襲われた。

 ドイツで2人目を正常に出産したのだが、長男の時となんか違う感じがした。はっきりと言葉で表現できないのだけと。

次男は重度の自閉症だった。

 

そんな話を聞くと、自閉症児者この世に生まれる時、何か抵抗サインを出すのかな。

 

 だって、本心は羊水の中に留まっていたいのに。

 自閉症は生まれる時から現代社会、文明生活との悪戦苦闘が始まると予感しているのかもしれない。

 

人間は生理的早産をする生き物と言われているので、赤ん坊は歩きだす頃までは症状があまり目立たない。

中には抱っこの時、体を反らしたり、アイコンタクトがない、泣き止まない、睡眠のリズムがつかないなど、あれッと思うことがあっても気に留めるほどでない。

 

 現代文明拒否がはっきりしてくるのは、自我が出てくる2歳前後の頃。

 

 靴下をはかない、帽子をかぶらない。服をぬいでしまう。新しい服、靴に代えられない。名札を付けられない。手さげを持ち続けられない。

爪を切らせない、シャンプーを嫌がる、塗り薬をつけられない、絆創膏を貼るをすぐ剥がす。歯を磨かせない。耳掃除は無理。髪を切るのは寝ている時。

スプーンを使えない。偏食。食べ物をいちいち臭いをかいでから食べる。

トイレで排泄する習慣がつかない。椅子に座っていられない。

高い所に登る、または狭い所に潜る。同じ道を通りたがる。

出ていた言葉が消える、出来ていた指差しが消える子もいる。

模倣をしない。手つなぎを嫌がる。親の後追いをしない。勝手にいなくなる。言葉を話さない。集団を嫌がる。・・・etc.

 

上記内容は文明社会で生きていくために最低必要なこと。

 

何より困るのは医療処置です。

 

内科に連れて行くだけでもかなりの覚悟。

歯医者はずるずると後回ししたくなるほどハードルが高い。

耳鼻科など行かずにすむものなら一生縁がなければよい。

やむを得ない予防注射もこなすだけで親は一日分のエネルギーを消費してしまう。

(外科に連れて行きたくとも、親では無理というので代わりに付き添ったことがあります。)

 

しかし これらの医療処置は避けて通れません。(必要な点滴を引っこ抜いて、治療が出来なかった話も聞きました。)

先延ばしにするほど困難になるので、早いうちから、痛くなる前からそれらの医療機関に足を運ぶように、とお母さん方に口を酸っぱくして言いました。

小さいうちなら騒いでもまだ、制御できる。

 

文明慣らしを一つ一つ実践したお母さんがいます。

 

そのおかげで、重度自閉症が大手術を無事に乗り越えれたのです。

 

 私が喋らないでも良い仕事だからモデルにすればと言っていた重度自閉症の美少女。中学生になるとぐんぐん背が伸び、側彎症になってしまった。

 

 特注コルセットをきちんと2年間装着していたにもかかわらず、コルセットの下で脊柱は曲がり続け、このままでは将来内臓に影響するということで手術が決定。

 

 大手術になることは想像に難くありませんでした。

術前の検査。2回にわたって400ccずつの蓄血保存。

 

万全の健康状態にして入院一週間目に手術、

1か月の入院生活。お母さんは8泊9日付添。入院生活対策は万全。

 

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レントゲン

  彼女は点滴も酸素マスクも尿バルーンカテーテルも受け入れ、なんと2日目にはおにぎりを食べた。

そして、大がしたくてリハビリの先生の付添で立ち上がり、トイレに行った。

 

3日目から歩行。なんとすごいこと。

若いから治りが早いとはいえ、医療行為すべてを耐えて受け入れた彼女の精神力。

 

病院では医師や看護師に模範患者と褒められ可愛がられているそうだ。

退院は間もなくだ。

 

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切ったのは背中

やっぱり聞きたい!

絵も歌も、

言葉のない自閉症児の内面を伝えるツールだし、伝わっても来る。

 

でも・・でも・・

やっぱしその場で、即、ひと声でも、一単語でも子供の口から聞きたい。

 

療育中の私自身にあったこと。

 

 私が夢の中で、まったく言葉のない自閉症男子としゃべったことがあった。

とてもはっきりした映像で記憶にしっかり残ったので、そのことをお母さんに話した。

「聞きたかったぁ!何て言ってたんですか?」と、とてもうらやましがられた。

その夢はお母さんに見てもらいたかった。

 

 療育中、

私は発語が出ない自閉症児にも、すぐにカードでのサインやマカトン・サインは使わず識字教育を優先させた。理由の一つは発語のため。

 

文字の識別ができるようになったら文字を見せて、発語の練習。

他児がいない別枠の時間をつくり、一人一人その子に合わせた言語訓練をした。

生の声、言葉を引き出したい思いだけで。(別料金など取らなかった、自分の興味だけなので。)

 

 口形を作る練習、口形を模倣する練習。

 息を吐き出す練習。

 マイクに無向かって息を吹きかけさせたり、笛を吹かせたり。

 トイレットの芯を細く丸めて吹かせたり、ピロピロ拭き戻し笛をつかったり。

 

舐めたり、噛んだりすることのほうが多かったかなぁ。

 

<口蓋裂の言語療法>や<言語障害に言語訓練>の手法をあれこれ勉強して

取り入れてみた。キュード法も一部の子には有効だった。

舌圧子を使って舌の形を作らせることもあった。

 

 やってる自分も変顔丸出しで、子どもに唾を吹き付けんばかりだったから、傍で見ていたらバカ丸出しに見えたかも。

 

 それでもバイバイのバの一音が出ただけで拍手喝采

「赤飯ものだね、」とスタッフで大喜びしたものです。

 

発語がなかった自閉症児に言葉がでてくるのはうれしい。

言葉は出ないものと諦めていた、という親も多かったし。

 

何人もの子が言葉を話すようになったことだろう。

言葉が出るようになっって人格がガラッと変わった子もいた。

自信がでたのだろう。

 

発音やイントネーションも普通に近くなる子もいれば、イントネーションは聾唖者の

ような目から覚えた発音に近い子もいた。

疑問文の語尾を上げるのが難しい子が多かったのはやはり自閉症の特性かな。

自ら疑問を感じているわけでないので。

 

何人もの自閉症の子に発語訓練をしてきたが、どちらかといえば男子の方が素直で、

言われたとおりにまじめにやる子が多かった。言葉もよく出るようになった。

 

それに比べ、女の子(美女揃い)は見栄っ張りで 「私はそんなことやんなくてもいいの!」、見たいなオーラを出している雰囲気があった。

 

 とある女の子など、訓練中、同年齢の女の子が入ってくると、さっと席を立って違うことを始めようとする素振りさえ見せた。訓練してるところを見られたくなくて。

 

 小学低学年の重度の自閉症女子に言語訓練をしていた時だった。

文字の覚えもよく、文字の音を聞けば書けたりもする子だった。カレンダー少女。

無声音のようなか細い音ながら模倣で出てきていた。

言語訓練は明らかに嫌そうな顔をして、抵抗しがちだった。

 

私は

「そんなに嫌なら、やらなくてもいいよ。

別に先生のためにやってるわけじゃないから、〇〇ちゃんがしゃべれなくともいいんだったらもうやめよう。」

と言いました。

 

そして片付け始めた時、彼女が私に手を伸ばして「やって!」と言ったのです。

私は内心の驚きと喜びを隠しさりげなく「じゃあ、やろう!」と言いました。

彼女も本心はしゃべりたいのだ。

 

 声は小さいけれど彼女の言葉は増えていった。

中学生になって、療育の一つ、社会トレーニングに出かけた時、

パスの待ち時間の間に、彼女にかけ算九九を言わせみた。すらすら。

 

手先も器用で彼女は今、社会福祉法人が運営する創作工房に通っている。

色彩感覚の優れた彼女にぴったりの仕事だ。

 

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歌は共通言語

 2歳過ぎても言葉がなかなか出てこなかったり、

出ていた言葉が消失していて、アレッと思う不安。

 

胸の中にザラッとしたものが広がる感覚は本当に苦しいものがあります。

 

言葉が出ないという現実を受け入れても、心の片隅で奇跡が起きないかと期待する気持ちがどこかにあります。

私も療育しながら、信念は信念として、ありえない奇跡を何度も夢想しました。

 

そこで思うのです。言葉がすべてじゃない。

 

 前々回の<絵は口ほどにものを言う>でも書きましたが、言葉だけが内面の表現ではないのです。

 

歌もそうです。

 

人類の初めの頃の表現、コミュニケーションは<絵>や<歌>だったのではないか?

 

療育で言葉のない幼児を何人も受け入れていた頃、

「言葉はないけど歌は歌うんですよ。」というお母さんがいました。

 それも一人や二人でなく。

 

たしかに、言葉がないにもかかわらず、声出しが鼻歌らしく聞こえる。

よくよく聞いてみるとそれがちゃんとしたメロディになっている。

リズムもあってる。

体のゆすり方も曲のリズムにのっている。

 

言葉と音楽は別腹とは思うけど、どうして言葉より音楽の方がインプットされ易いんだろうな。

 

 オウム返し、1単語の往復、たどたどしい会話程度なのに歌は完璧という、自閉症中学生が何人もいました。

 

  こばとの療育の一環の一つに、中学生の社会トレーニングがあり、そのプログラムにカラオケの活動がありました。

 日曜日に中学生を十数名のグループにして、カラオケ店に連れて行きます。

安いカラオケ店で1時間、ドリンクバーはただ。

 

好みの合いそうなメンバーを4,5人ずつに分けて個室に押し込みます。

スタッフは1名ずつ、サポート兼見張り。マイクを離さないメンバーもいるので。

 

 ボキャブラリーの乏しい重度の自閉症男子だからといって、幼稚な歌を選ぶのかと思ったらとんでもない。

 

会話は単語・一往復のやり取りで終わる重度の自閉症男子。

平井堅を歌わせたら完璧。

リズムも音程もばっちり。

 

あぁ、歌みたいに会話が出来たらなぁ。

 

 

ポルノグラフィティの「アゲハ蝶」を歌う子もいるんです。

 

 社会トレーニングには自閉症だけでなく、ダウン症の中学生も連れていきましたが、その中の一人の女子は石川さゆりの「天城越え」を歌いました。

振りまでつけて、なりきって絶唱。瞠目。

 

流行っている時だったとはいえ、小田和正の「言葉にできない」を選曲したり、今井美樹の「プライド」を選曲したり・・・・。なんか切ない。

 

歌うことは彼らの内面の何かを吐き出させてくれるのかも。歌はいいなぁ。

 

追記

 ADHDタイプの子は滑舌が悪かったり、どもったりする子が結構いますが、歌を歌わせるとどもりませんね。

通常の会話ではかなりどもるのに、サザンオールスターを歌う時は別人でした。

堂々と全身で振りをつけて、気持ちよさそうに。

 

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俺の居場所

 私が自閉症に最初に会ったのは45年前だった。

長男の友達の弟が自閉症だった。当時2歳。

お母さんは自閉症の対応に戸惑い、涙していることが多かった。隣に住んでいたので私も度々様子を見に行ったが知識があるわけでなかった。

 

そこで私は二つ目の大学に行き、障害児の勉強した。

 

その当時、自閉症の原因は様々憶測され、母親の育て方の所為にされたこともあった。

 

 治療療法も受容がいいと言われたり、行動療法、オペラント療法、キレーション療法・抱っこ療法・・・etc.めまぐるしく出て来て親を迷わせた。

 

 自閉症のネーミングも様々変化した。(障がい児について学んだ大学の児童精神医学のテキストには小児分裂病という単語もあった。)

 

 <学習障害>なる病名が出てくると、言葉のある自閉症の親は子どもを学習障害と言いたがることもあった。

 ADHD(注意欠陥・多動性障害〉や高機能自閉症(アスペルガー症候群)が一般化してくると自閉症スペクトラムで一括りにするようになった。

 自閉症というネーミングになじまないタイプもいることから、さらに広い発達障がいという括りになった。

 

 教育現場ではその方がやりやすのかもしれない。

 

 私が療育を始めた頃は、幼児期は症状が変化するので、公的機関で検査してもはっきりとした診断名が出されず、グレーの子は自閉傾向と言われることが多かった。

 

 彼も保育園に在籍中、そう診断された。

園では多動でトラブルメーカーだった。

 

 療育に来た時は年長児だったが、面接すると自閉性はなく、ADHDが主症状だったので、いずれ落ち着くだろうと母親には小学校は普通級への入学を勧めた。

 

 しかし、お母さんは保育園でトラブルをおこす度、謝り続けることに疲弊していた。

それで学区外だが評判の良い特殊学級を探し、入学させた。

 

 彼のレベルでは特殊学級(現在の支援級)は楽すぎた。

入学したての頃は遊びの多い特学のことを喜んで、自慢げに話していた。

 

 こばとの療育の夏合宿で、一緒のグループの友達が自分より自閉症状があるにもかかわらず、普通級に行っていると知り何かを感じたようだった。

 

彼は自分の特学のことを言わなくなった。

そのかわり同年齢の子に、普通級と特学のどちらに行ってるのかを聞きたがった。

 

こばとの療育には普通級に入っている子も多数来ていた。

 

自分より喋れないのに普通級?という思いが彼の顔に出ていた。

 

彼は障がいのあるクラスメイトを思いやると言う所まで心が育っていなかった。

学校のクラスのなかで自閉症児を見下したり、からかったりすることがあった。

なので先生からはそんな彼の態度は嫌われ、疎まれた。

走れば速く、運動もよくでき学習力もあったがクラスの雰囲気から浮いていた。

 

3年になると彼は「普通級に行きたい。」と言い出した。

普通級に行けば普通にしゃべれる相手もいる。

 

 しかし、母親も特学の先生も今更無理!と取り合わなかったが、彼があまり望むので3学期だけ行ってもよい、ということになった。

 

 彼は喜んで、勉強も頑張った。

しかし如何せん、3年ともなると学習の差は大きかった。

 療育は週一回、国語・算数が主だったし。

 

 3学期の終わりに母親からも特学の先生からも「ほらやっぱり無理だったでしょ。」と言われた。

 

彼が普通級を継続するためのサポートはどちらからもなかった。

 

それから彼は普通級に行きたいと言わなくなった。

そして、それまで療育中の学習に文句を言っていた彼は文句を一切言わなくなった。

普通級の子はみんな勉強してるんだ。そう感じたようだった。

 

 中学校は比較的レベルの高い支援学級に行き、療育はやめて受験の塾に行った。

高校は支援高校に行ったが、当時流行っていたパソコン教室にも通い検定も受けた。

 

その後パソコンのスキルで東京の中心部にある某大手の特例子会社に就職した。

 

 就職して間もない頃、

彼は仕事帰りにかって療育を受けた、こばとの事務所に立ち寄ることが何度かあった。

 

 仕事を終えて、事務室に戻ったなじみの若いスタッフ達としばらく話をした。

 

その話はいつも小学校の時の話だった。

 

「あんなこと言うなんて、先生ひどいよね。」と彼は何度も言った。

「それは辛かったよねぇ。」と若いスタッフも話に付き合った。

 

何回か事務所に立ち寄って、小学校時代の辛い気持ちを吐き出し切ったのか、その後はぱったりと来なくなった。

 

 今の時代なら、彼のようなタイプに対しても理解が広まってきているし、サポートも十分受けられただろう。

 

 あの当時、ADHDは居場所が中途半端だった。

引きこもりになっている人もいるのではないか。

 

 彼はまじめに努力して社会で自立した。

 今、親元の近くで親元を離れ一人暮らしをしている。

 

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鍵が開かない。

  今もずう~っと心に引っかかっている自閉症の彼は、たしか今年36、7歳になっているはず。

  

 気懸りで、毎年お母さんと年賀状をやり取りして様子を聞いてきた。

 

 彼は自閉傾向と診断され、知的には中度で言葉も出ていたし、目もよく合い自閉っぽい仕草、行動はあまり見られなかった。

 通園施設の年長組で、坊主頭で目の大きいかわいい男子だった。

 

 私が療育を開始すると間もなく希望してきた。

 

 療育は基本、母子分離なので終わる時間に、お母さんが迎えに来るという決まりになっていた。

 彼は療育に対しては素直で、学習の取り組みも良かった。

 

 帰る時間が来て、出口まで彼を見送ると、お母さんは隠れるようにしゃがんでいるのでびっくりした。

 

私、「何やってんですか?そんなとこで!」

お母さん、「帰りがけ私を見ると叩いてくるんです。」

 

 療育中の男子の姿からは予想もしない事だったので驚きました。

 

確かに他にもいましたね。

 出迎えの母親に会った途端叩いたり、カバンを投げつけたり、わざとしゃがみこんで固まってしまう自閉症児。

 自分の意に反したことをやらせた母親に怒りをぶつけている感じ。

 

スタッフが見ているとやらないので落ち着いて帰路につくまで見守るうち、彼のこの行動はなくなった。

 

 彼は特殊学級(今の支援学級)に入学し、さしたる問題も起こさず経過。

しかし、半年たっても学校は彼になぞり書きをやらせるだけ、とお母さんは嘆いた。

「先生にひらがなもカタカナも書けるんですけど、と言ってみれば。」と提案。

 

四角いマスにきっちり角ばった字を書く子だった。

 

お母さんが学校にそれとなく言うと、突然学習内容が変わったそうな。

 当時は障がい児が入学時にそこまで出来るとは思われていなかった。まずは身辺自立がモットーの時代でしたから。

 

 生活面では大変ではなかったが、彼は一旦、何かを思い込むとそこにきっちり鍵がかかってしまう。執念深いというか。いつまでも根深く。

 

お母さんの話。

 ある時、歯医者で虫歯を抜いた。

我慢して出来たは良かったが、歯医者は歯を抜く所と思い込んでしまった。

 

 次に行った時は単なる処置だけだったのだが、歯を抜かない、ということが納得できず大パニックになってしまった。

 患者の居ない時間帯を選んの診察だったので、医者も気にしなくていい、とお母さんに言ってくれた。

 しかし、お母さんは息子のパニックに、情けなくて、情けなくておいおい泣いてしまったそうだ。泣いていると、息子がケロッとした顔で寄って来て言ったそうだ。

 

「お母ちゃん、どうしたの?」

 

お母さんはさらに情けなくなった、と。

 

 療育の場面では決まった流れなので、思い込みの行動のパニックはなかったが生活場面では髄所に出ていたという。

 

 新戚の集まりで、そこに来ていた年下の女の子を叩こうとして周りの者に止められた。それを根に持った。

 その後、叩こうとして止められた女の子に会った時、誰も止める間もないほど、真っ先に叩きに行った、そうだ。

 

 彼は5年生の時、転居,転校をした。

5年生といえば、少年から青年に差し掛かる思春期。

通常でも親が対応に苦慮する年頃。

 

 お母さんにしてみれば、転居しても療育にはかよえる距離だったので、お母さんは療育に通わせるつもりだった。

しかし、彼は転居したら療育は終わり、学校も終わりと決めつけていた。

 

 療育に来ても、車の中でお気に入りのぬいぐるみ(幼い表情)を抱いて降りようとしない。転校先の学校でも教室に入らず、入れると友だちを叩くので別室で個別授業になった。

 

中・高生になっても<学校は終わり>、の思い込みは変わらなかった。

 

強度行動障害

 

卒業後も受け入れてくれる施設はなかなか見つからなかった。

ショートスティに行った施設でもトラブルは起きた。

職員から暴力を受けてけがをした。

たぶん彼の暴力に恐怖を感じて反撃されたのかもしれない、とお母さんは語った。

 

その後、あちこちの施設で短期入所や作業所での経験を積んで、

30過ぎてようやく落ち着いてきた、とお母さんの年賀状に書いてあった。よかった。

 

 彼の<思い込み>の扉には鍵がかかって、根深さ、執念深さに変質してしまう傾向を持っていたのだろうか?

 

あの当時は脳科学が爆発的に進化する前だった。

医療、医薬も今日ほど開発されていなかった。

 

もし、彼が今の時代の自閉症であったら、きっと合う薬をみつけられるだろう。

もしかしたら違う診断がつくかもしれない。

 

お母さん・家族には長くつらい道のりではあった。

彼自身も辛く、苦しい年月を過ごした。

 

とにかく落ち着いてきてよかった。

 

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絵は口ほどにものを言う

 自閉症の幼少期はその育て辛さ、不可解な行動、激しい感情爆発に注意・注目が

行きすぎて、彼らの隠れている感性は気づかれにくいですね。

 

 言葉がないと内面は見えないブラックボックス

 いえいえ、そうではありません。

 

絵で内面を表現する子も多くいます。

 

 療育には幼児期から来る子がほとんどですが、絵心の片鱗は幼児に既に芽生えているように思いますね。

 

 人の顔はおろか、形らしい形が描けない軽度の自閉症児がいる一方、言葉はろくに出ていないのに紙にいたずら描きをしたのを見ると、線が何かを表しているのかな、と感じさせられる重度の自閉症児もいます。

 

 そういう子は成長するにつれて、フーム!!!と言わせる絵を描いていくようになり、親もそこを伸ばしてあげたいと思うようになるようで・・・。

 

彼らの絵には皆、独自の世界ありますね。

 中度の自閉症でカレンダー少女でもあった女の子は、何故かいつも人間を描く時は、紙面の端を使って半身を描いていました。顔半分を描くことも多かったですね。どうして半分だけなんだろう?

これは何を意味しているんだろうね、スタッフは首をかしげましたが、彼女から理由は聞けずじまい。

 

 幼児から青年期まで療育に通った自閉症男子(軽・重)2人は個展を開いたり、何度も賞をもらったりしているので、ネットで名前を検索すればすぐ出てくるほど。

彼らは20代ですが、就労しながら制作するという生活スタイルを気負いもなく淡々と・・・。

 

絵が有効なコミュニケーション手段だったこともあります。

 

 療育に通わせていたお母さんからのうれしい話。

 彼女の一人息子は小学生、言葉のない自閉症重度でしたが穏やかな性格。

ある日、買い物に行こうとした時、息子がしきりに話しかけてくる。

が何を言っているのか分からない。

お母さんは紙を出して「わかんないからこれに書いて」といった。

そしたら、息子は絵らしきものを描いて、お母さんに返してよこした。

よくよく見るとそれはビックリマンチョコの絵だった。

「あぁ、ビックリマンチョコを買って欲しいということ?」

息子は頷いたそうな。

今、シングルマザーとなっているが、働いている彼は癒しだ、と年賀状をよこしてくれます。

 

 療育のひとう、中学生の社会トレーニングの時にもありました。

 社会トレーニングは中学生10数名をひとグループにして色々な社会体験をさせるという一日がかりの活動。

 

 公民館の調理室を借りて、トンカツを作るという調理実習をやった時のことです。

簡単な単語でやり取りは出来るがコミュニケーションまではいかない、重度自閉症女子。

 彼女は家に帰ってから、トンカツの絵をいろいろ描いたのでお母さんは調理の情景が想像できた、と話してくれた。

 

 12月の社会トレーニングは、クリスマス前の日曜日の教会のミサが恒例になっていた。宗教には関係ないのですが、近くにある教会の若者向け、夜のキャンドルサービスにご好意で参加させてもらっていたのです。

 

 皆、厳かな雰囲気を乱すことなく、他の信者さんたちに合わせて、牧師様のお説教を聞いたり、賛美歌を歌ったり(口パクあり)、帰りにはお菓子までもらって。

 

 重度自閉症の彼女はそのミサの雰囲気をとても気に入っていました。

家に帰ってから教会の絵を何枚も書いていたそうだ。

 

 彼女は言葉ではなく絵で感想をつたえていた。お母さんには彼女が楽しかったというのがよくわかった、お母さんも参加したくなったと言っていました。

 

絵は口ほどにものを言います、言葉でなくともコミュニケーションできますね。

 

芸術とはそういうもんですよね。

 

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嗚咽

 

 こばとの療育期間中、通って来てた子どもの多くが重度・中度の自閉症でしたが。

 

その他にはアスペルガー(大学に入った子も何人もいました。)

知的に高いケースと低いケースの違いはありましたがADHD

学習障害

ダウン症

コケイン症候群

ウィリアムズ症候群

ピエールロバン症候群、

レッド症候群、筋ジストロヒー、

水頭症、小頭症、染色体異常、

知的障害、難聴など様々な障害の子がいました。

 

4大卒の専門スタッフ8人と学生ボランティア数名で運営。

 

 学生ボランティアで理学部なのに、自閉症が好きで3年間も続けてくれた男子学生がいましたね、もちろん合宿も参加。

 

 私は今も、筋ジストロヒーの子どものことを思い出します。

彼にとって本当の楽しさ、喜び、幸せとは何だったか?

 

 彼のお母さんは養護学校(今の支援学校)の先生をしていた。

当時の養護学校の実態内容を知っているがゆえに、筋ジストロヒーの息子には養護学校ではなく普通級に入れたいと考えた、父親も。

 

 お母さんの養護学校こばとで療育を受けていた知的遅れのある女子いた。

その子の成長を見て、お母さんは息子が4歳になったら、療育に通わそうと決めていたそうな。

 

 そして4歳になった時、息子を連れてこばとに療育を受けたいときました。

その時すでに症状は進んでいて歩行は車椅子。

発語は鳴くあごが下がっているので涎が呑み込みにくい。

食べる物は小さく刻んだんだ物でない呑み込めない。

はさみを開くことはおろか、えんぴつを持っていることもかなり困難だった。

 

 あきらめない精神のこばとはもちろん療育を引き受けました。

 

 しかし、バリアフリーではない、おんぼろビルの3室を間借りしていたので、室内、階上への移動はおんぶか、だっこ。

合宿も、背負子とだっこで参加。

 

 根気根気の甲斐あって、はさみで切ることができるようになったり、筆圧は弱いながらえんぴつでなぞって書けるようになってきた。発語は出ませんでしたが、「あーあー」と表現し、体で感情や喜びを表現、かわいい子。

 

 そして、学校側もできる限りの改良をしてくれて普通学級に入学。

ところがある日、彼は学校で大便のほうをおもらししてしまいました。

 学校側は小便は何とか対応で知るものの,自分で体を支えていることのできない、彼の大便の処理に困り、勤務中お母さんが学校に呼ばれるという事態も発生。

 

 それからお母さんは朝、必ずうんちが出るように夜の食事を工夫したり、朝は出るまで便器に座らせる策をとりました。

 

 また、言葉の出ない彼が友達とコミュニケーションをとれるよう、写真の日記帳を作って持たせるなど涙ぐましいほど努力。(スマホなんかない時代です)

 

 彼は笑顔が多く友達もよくしてくれました。体育や運動会では車椅子に乗ったまま、体を揺らした、楽しそうに応援していたそうな。

  

楽しく学校生活を送っていると思っていたのが、

 5年生のある夜、彼は布団に潜ったまま、嗚咽を漏らし、さらに号泣するのをおかあさんは聞いてしまった。

 

 そのことを話してくれたお母さんに、

私は、「彼が一番楽しそうにしているのはいつですか?」と聞きました。

 

 お母さんはしばらく口をつぐんだ後、「筋ジストロヒーの仲間たちが集まる会が一番のびのびと楽しそうだ。」と答えました。

 

 彼は中学校は肢体不自由の支援学校に入学した。

その学校では車いすで体育し、発語のない者同士でもいろんな手段を使ってコミュニケーション。

 実に楽しそうで、のびのび生活するようになった。とお母さんは言ってきた。

ほどなく一つ年下の妹も彼と同じ学校に転入した。

 

 妹も彼と同じ筋ジストロヒーで普通学級にか通っていた。

お母さんは卒業を待たず彼女を転校させた。

彼の本物の生き生きした学校生活を見て即決断した。

 

 言葉を発しない兄妹。

無理をしない本当の気持ち出せる場所を見つけてよかった。

 

 布団の中で号泣した彼の気持ちを思うと今もやるせない。

 

 

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胸の内!!

 症状の重い自閉症の幼少期は3重苦のヘレン・ケラーと同様。

 

 不安感,混沌とした感覚で心も体も振り回され、混乱状態。

 聞くもの、見るもの、触るものが何なのか、渾然としていて認識できない恐怖。

 

 自閉症は本人が一番辛く、その辛さの程度は分かってもらえない。

 本人はできることなら、快の感覚(感覚遊び)だけに執着していたい。

 

しかし周りはそっとしておくわけにはいかない。

この現実の世界で生きていくためにその術を教え込まなければならない。

 

術を教えるサリバン先生は何人も何人も必要なのです。

 

近年は自閉症の理解も進み、療育、医療も進歩してきました。

  言葉のない重度の自閉症と診断された場合、手取り足取り手厚く、ていねいにかかわってもらえて信頼、人間関係が良く育つことも多いように思います。

 

 一方、今も昔も、自閉症と診断されても知的に軽度だと、子どもの理解力と周囲の要求にずれや無理が出ることもありますね。

 

 目に見えてわかる障がいとは違い、五体満足なゆえに言葉が出ていると、その理解能力を誤解され、本人の困り感を分かってもらえない。

 

30年前は様々な療法が自閉症の世界に流布していました。

 

私は認知発達促す学習こそが最善の治療薬と信じて療育をスタートしましたが。

 

 私が平成元年に療育を開始した時、幼稚園の年長自閉症児が遠方にもかかわらず、すぐに療育を希望してきました。(お父さんが車で送迎)

 

 彼は知的には軽度、イントネーションは不自然ながら言葉も出ていて、学習能力もありました。

 

しかし自閉の症状、こだわりがバリバリで半端ない。

 

 ドアの開け閉めのこだわり。

 歩き方のこだわり、道路の直角曲がり。

 手や指のカクカクとした動かし方。

 一見して自閉っぽい仕草が多々。

 

 症状はあるが、ご両親は地元の小学校普通級への入学を希望していました。

 

 その当時は、障がいがあっても普通級で同じ教育をという統合教育の思想が強く、支持する保護者、団体も多く存在していましたね。

(現在は支援も必要、支援は差別とは違うという流れになって来ていますが。)

 

 ところが親の希望に反し、入学が間近になっても彼は教室に入ることが出来ない。

私は彼の家に出向き、彼を連れて学校に行き、教室に入って椅子に座る練習をしました。

 

 その後は学校や先生の理解のもと何とか普通級で過ごせていました。

 こばとの療育も続けながら。

 

しかし、5年生を過ぎたころ彼の内面に変化が起きました。

(この年齢の頃はどの子にも変化が起きますが。)

 

 自分が学校のクラスメイトととは違うということに気が付いた。

 療育に来ると自分と似た子がいる。

 同じ教室で別のスタッフから療育を受けている、自分より年下の自閉症児に

 近寄り、その子がオウム返しをするかどうか試す。

 オウム返しをすると嬉しそうに大笑いをする。

 しつこさは増していった。

 

 これは一旦、距離を置くしかないな、と彼の療育を打ち切りました。

 

 そして中学になった時、社会トレーニングに誘いました。

社会トレーニングは全員中学生なので、かってのオウム返しこだわりは出さない

だろうと予測して。

 

彼は喜んで参加してきました。

 

 その日の社会トレーニングは電車バスを乗り継いで、大規模の森のアスレチック公園に行って、体を動かすという内容。

 

 中学生なのでスタッフも安心してコースについて見守るだけでした。

 

コースも終盤になった時、彼が突然泣き出したのです。

 

 近くにいた私はびっくりして、「どうした!どうした!」

 すると彼は「僕は辛い、辛いんだ!」と泣きながら訴えました。

 

 そうか、学校のクラスでは心を許せる相手はなく、疎外感を感じているんだ。

 

 私は彼が気が済むまで泣くがままにさせました。

 幸い森の中なんだからいくら大声で泣いてもいい。

 

 胸の内を吐き出したのか、帰る頃はすっきりした表情になっていました。

 

 駅まで歩いて帰る道は、レベル的にも同じで、波長の合う同い年の自閉症男子と

肩を並べ、何やら二人だけに通じる会話をして笑いあっていた。

 

 私は後ろから「あんた達、皆にもわかる会話をしてよ!」と声かけました。

  

 同じ辛さを感じる者同士だけが、分かり合えることもあるのかもしれない。

 

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対人格差

 自閉症は人間に関心がなさそうで、人間関係を作りにくいように思われがちですが、

どっこい、人を見る目は長けているのです。

 

相手の能力とか長所とかではなく、相手の本質を見るのです。

 

自閉症はその相手が自分にとってどういう存在か、直観的に判断します。

 

自分にとってメリットのある存在か。

自分の要求を無条件に受け入れてくれる存在か。

自分のわがままが通る、格下の存在か。

なめてかかっても怒らない優しいだけの存在か。

 

 彼らは自分の中で密かに、周りの人間を順序付けしていることがあります。

 

お父さん、お母さんではなく、お兄ちゃんが1番という家もありましたよ。

お母さんは愛してくれるけど、時々自分のエゴの方が強くでることもあるから。

 

 彼らは価値観を押し付けてくるだけの人は本能的に避けます。

 金持ちだとか、学歴がだとかは関係ありません。

 本当に自分に真剣に向かい合ってくれる人はちゃんと受け入れます。

 <本気さ>だけが彼らに通じるのです。

 

 そして、戦って負けたわけではないけれど、自分のボスだと認めた存在にはガラッと態度を変えます。

 なめてかかっている人には騒いで拒否していたのに、ボスが言っただけでコロッと従ってしまう場面はよくみられることです。

 

 自閉症は人をよく見ていて、人によって態度を使い分ける、という話は療育現場にいる人から良く耳にする話で、彼らの対人格差の能力はあまりよく言われません。

 

 しかし、人を見る目の無条件の例外もあります。

彼らは若い女の人が好き。

しかも美人であればまちがいなし。

髪が長ければなおよし。

 

 

 療育していた頃もありました。

 

 療育が終わって出口まで見送ろうかな、と私が手をつなごうと手を差し出すと、子どもは近くにいる若いスタッフの方に手を差し出すのです。

 

 正直と言えば正直ですが、憎らしいじゃありませんか!

 

 確かスタッフ仲間では私が一番の年配のおばさんではありましたが。

 

自閉症の対人格差は分かりやすいし、彼らの気持ちの表れでもありますね。

 

対人格差は場面格差と共通します。(空気を読まないどころではありません。)

 

療育中、あるお母さんが言っていました。

自分の自閉症息子は療育の成果で、場面に合わせてきちんとした態度、行動もとれるようになってきているし、自分のことは自分でやれる。

 

なのに、ある施設に預けると、まったく初期自閉症に戻ってしまう。

何なのこの違い、びっくりしてしまった、と。

 

 その施設では自閉症とはそういう行動、態度をとるものだからひたすら受容しよう、という方針だったんじゃないですか?

それで子どもも空気を読んで、自閉症らしく振舞おうとしたのでは?

 

自閉症は、自我・主体性が育ちにくい分、周りの人・環境にによって大きく左右され影響を受けて成長するということでもありますね。

 

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カレンダー少年

  自閉症が自分のメリットに合致した時だけ発揮する、尋常ではない 能力。

他にもありますね、数字にやたら強いとか。

 

 映画「レインマン」や小説「ミレニアム」にも出てくるので、自閉症は数字に強いというイメージを持たれるかもしれないが、それはごく一部。

 

とはいえ、自閉症の特質の一つには違いないですね。

こばとで500人以上療育しましたが、カレンダー少年・少女は何人もいました。

 

(しかし、数字に強いことは何のメリットに合致するんだろう? 記憶と結びつけ易いということかな?と勝手に解釈。)

 

 彼らが「先生の誕生日は何日?」などと聞いてきたら、まともに答えないようにしていました。

適当にごまかして。

 

 うっかり教えようものなら、ばっちりインプットされて後々、ことあるごとに開示されてしまうからです。

 

 数字に強い自閉症男子。

 彼は幼児からこばとの療育に通い、中学の特学(現在の支援級)と養護学校高等部(現在の支援高校)の時は社会トレーニングに参加しました。

 イントネーションはちょっと変でしたが言葉はあり。

 

 しかし自閉症状が強く、次から次とこだわりが出て、お母さんはいつも悩みを抱え、トラブル発生するたび、電話をかけてきました。

 

 その一つ。

 ひとりで通学できるようになったは良かったのだが、数字の強さがあだになった。

 

 彼は通学の登下校中、看板などに書いてある電話番号を覚え、家に帰ってからその電話番号に電話をかけるという。

 

かけて相手が出ると何も言わないでガチャンと切ってしまう。

 

彼は電話がつながったことを単純に喜んでいる。

 

お母さんは慌てて「間違いました!!.」と謝ったり、電話を掛けさせないようにするのに疲れてしまう、と嘆いていました。

 

そうこうしているうちに電話番号のブームは去りました。

 

今、30代の彼は数字の強さを生かした適職(テーマパークのコスチュームのサイズの仕分け)についています。

ベテランなので定年までいてくれと言われているとか。

 

趣味が同じ鉄ちゃん系のガールフレンドもいるそうな。

 

彼は今も自分の予定や気になる過去について確認したい時、メールをこばとのパソコンに送ってる。

 

それはいいのだが、平成元年に開始したこばとの療育の場所や、自分と同じ頃に通っていた子の名前を聞いてくる。

知っているくせに。

 

自分の就労年数祝や誕生日、両親の誕生祝の予定もメールしてくる。サンタさんは何歳まで来るのか気にしていた。30歳をすぎて踏ん切りがついたようだ。

 

私はいつもお仕事頑張ってね、と返信メールしている。

 

自閉症の世界 

天才ウェイター

 自閉症児は幼少期、不器用だとか動作がぎこちないだとか言われがちです。

 

確かに、園の発表会や運動会のお遊戯をみると肯定せざるを得ないかも。

 

模倣する気もなくただ突っ立っているだけ、その場にいるだけでも〇。

模倣しても、数テンポ遅れてあいまいな動き、やる気のなさそうな動き。

 

でも、これが彼らのすべて動きの本質、と思われるのはちょっと心外です。

 

 模倣できない、とか模倣する意思がないとか言われますが、彼らにとっては模倣するメリット、機敏にするメリットはない時はだらけた動きになりやすい。

 

 自分の要求やメリットとずれたことを指示されても、やる気は出ないのは彼らの正直な気持ちの表れ、と言えなくありません。

 

 しかし、自分のやりたいことをやる時はぎこちなさなど微塵も感じさせないバランスのとれた動き、素早い動作をみせてくれます。

 

自分でやりたい動作

 

新体操のようにひもをくるくるまわす。

目を回すことなく、くるくる自転する。物を回すのもうまい。

体勢を崩さすピョンピョンいくらでも跳ぶ。

体をくねらせても、エビぞりしても倒れない。

中には、自分の指先に垂らした唾を、カメレオンの舌なみに、目的物に向かって吹き飛ばす重度自閉症児もいて・・・。

 

 

驚嘆した思い出があります。

 

幼児のみの夏合宿をやった時のことです。

合宿の目的は集団の動きについてくる、そして待つ練習です。

 

 参加幼児のひとり、自閉症重めの4歳男子。

小太りながら動きは俊敏。多動。発語はないけど、こけし人形のような丸顔でカワイイ憎めない子。

昼間の活動はまずまず参加でき、初めての宿舎のお風呂にも入ることができた。

 食事は偏食、太っている割には食べなかった。

問題は就寝。

夜になっても家に帰れない、と分かった時から泣きだし、つきっきりであやしても泣き止まない。

おんぶするには重すぎる。

他の子も心細い思いでいるので、彼の泣きに感応してはまずい。

私はベット部屋から彼を連れ出し、階下のロビーに連れて行きました。

ソファで落ち着かせようとしましたが、泣き止む気配がみられない。

 

 ロビーには自販機があり、彼の好きなオロナミンCも売っていました。

私はオロナミンCを買い、キャップを開けて彼に持たせました。

 

 彼は遠慮なく受け取りましたが、手に持っているだけで飲もうとしません。

しかも、彼はオロナミンCを持ったままソファに寝転びました。

まずいな、

しかし、ソファは合成皮だし零したら拭けばよいと、そのままにさせていました。

彼はオロナミンCを手に持ったまま、寝ころんだり寝返りしたりしながら泣きぐずり、続けていました。

 

私は驚嘆しました。

寝転んでいるのにオロナミンCを1滴もこぼさないのです。

 

日付が変わろうとする頃、さすがに彼も観念してベット部屋に戻り、オロナミンCも飲んで、たちまち寝落ちしました。

 

天才ウェイターなんじゃないか!!

 

その時の彼の姿が驚嘆の思いと一緒にいまだ脳裏に焼き付いています。

(自分で言うのもなんですが、映像記憶はいい方なんです。)

 

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目的まで一直線

 大昔の人類には備わっていたであろう、

  通った、通るべき道の記憶、

  上空から見たわけでもないのに的確な空間認識を

自閉症の子ども達は脈々と受け継いでいるように思いますね。

 

 物質や技術に頼りすぎている現代人より、研ぎ澄まされた感覚を温存している感じ。

 

道の話はありすぎて・・・。

 

 小学2年の軽度ではあるが、グレーではない自閉症男子。

数字系に強く普通級に在籍していました。

遠方でしたが、こばとの療育にはお父さんが車で送迎。

帰りはこばとの教室から少し離れたところに車を止めて、お父さんが待っている、というパターンで進めてきていました。

 

 その日もいつも通り2時間の療育を終えて、約束の時間通りにスタッフは彼を送りだしました。

まだ携帯で連絡を取り合っていなかった時代です。

 お父さんはいつも教室の入り口からは見えない角に車を止めている。

その日も来ていると思って帰したのです。

しばらくしてお父さんが「息子がまだ来ないが・・・」と言ってきました。

スタッフ「えっ、もう出しましたよ。」

お父さん「ちょっと着くのが遅れたんです。」

それからお父さんは車で探してみると車に戻りました。

 

 私も他の子ども達の手前、表面上は冷静にしていましたが、人心地ゼロ。

療育は終わり、日も暮れ、子ども達と若いスタッフは帰りました。

 

 電話の傍を離れずお父さんと連絡を取り合いましたが、男子は見つからず、ついに県警に捜索を依頼しました。

 私服警官が数人来て事情を聴いて行きました。

お父さんは取りあえず家に向かいました。

 

家までは15km程。車以外で療育に来たことはない。

 

夜、9時過ぎ頃お父さんが家に着くと息子は帰っていた!!!。

「ただいまぁ~」と何事もなかったように帰って来たそうだ。

アイスクリームを食べていた。

 

 3時過ぎにこばとの教室を出た彼は、車もお父さんもいなかったので、待つこともせず、困ったとも思わず、車で来た道をそのまま辿って、家路に向かったのだろう。

 

お父さんがいなくて、どうしよう、と思わなかったところが自閉症らしいけど。

 

それにしても疲れた様子も見えなかったとは。

太古、人類はそのように大陸を移動していたんだろうなぁ。

 

自閉症の世界