学校時代卒業後の余暇活動!!
これはきわめて重大なテーマだ。
なにせ、学校卒業後の人生のほうががずっ~と長い。
子どもは体格が良いことも多く、親の背丈を越し、体力はありあまるほど。
一方、親は年を取る。体力も衰えてくる。足腰も弱る。
幼児時代のように、親が余暇の相手をしたくても出来なくなる時が来る。
休みの日は親が連れ出さないかぎり、家でゴロゴロ。
一日中テレビやDVDを見ていたり、ゲームしかやることがない
食っちゃ寝、食っちゃ寝では肥満、成人病予備軍の心配も出てくる。
でかい図体が目障りになってくる。
これでは家の中に暗雲が漂ってきかねない。それでは困る。
というわけで、こばとでは将来を見据えて、
余暇活動につながるような、体を動かす療育を開設当初から取り入れてきたのだった。
自転車もその一つ。
サイクリングが出来れば、手軽な運動になる。
映画鑑賞にも連れて行った。
夏合宿では公共機関や宿泊に慣れさせた。
家族旅行が出来たり、山登りやレジャー施設に気軽に行けるようにと。
こばとが力を入れてやったことの一つにボウリングがある。
平成5年に父親の療育参加を期待して、小学3年生から6年生までの児童対象に、
「父と子のボウリング大会」をやった。
平成7年には2年生以上、平成8年以降は「親子ボウリング大会」として
小学1年生から6年生までを対象にした。
平成24年まで毎年11月3日に実施し、20回つまり20年続けた。
(翌年、こばとを縮小、移転したのでボウリングは社会トレーニングでやった。)
こばとがボウリングを始めた平成初期の頃は、障がい児をボウリング場に連れて
行くのは珍しいくらいだった。
特に人目が気になる、多動の自閉症を連れて行くのは。
「第〇回親子ボウリング大会」は毎年11月3日と決まっていた。
親子もその日をその日を心待ちにしていた。
小学校1年から6年生まで、親子ペアで参加なので、すごい人数だった。
毎回25レーンから28レーンぐらい予約した。
貸切に近かった。
1レーンに2組の親子つまり4人×レーン数。
その他に家族や兄弟も来てギャラリーも結構の人数だった。
2ゲームやり、Ⅰゲーム目の子どもの点数で順位を決めるルールにした。
(親子の合計点数でやるとセミプロ並の親もいるのでアンフェアに。)
準備段階の時は同じレーンにはいる親子の組み合わせに頭を悩ませる。
子どものボウリングのレベル、近い学年、同じ学校、居住地が近いかどうか、親同士が知り合いかどうか、相性が良さそうかどうか,・・・etc。
当日は受付でレーンの割り当て表と参加費3000円を払う。(2ゲームの代金、靴代、おやつ代含む)
私はボウリングの入り口で親子を出迎える。
大会のためマイクも用意した。
ずらりとレーンの前に座った親子とギャラリーを前にまず私が開会の挨拶、
次に大会当日6年生の中から選んでおいた子どもが選手宣誓(カンペ用意)
ゲームスタートの合図で始まる。
1年生、初参加の低学年にはキッズレーンをあてがう。
ボールを持っていられない。すぐ下に置いてしまう。
ボールを転がすということが???
転がしてもピンまで到達できず、バンパーにぶつかり蛇行しながら転がる。
レーン中にまで入り込んでピンを倒そうとする子どももいる。
レーンに寝転んだり、ボールをいつまでも放そうとしない子どももいる。
キッズレーンではほとんど親子一緒にレーンに立つ。
レーンのスタートラインにおいたボールを子どもの手を使って転がす。
親は人目を気にせず、子どもを介助する。
親の番の時はハッスルして腕前をみせる。
ボールが床にぶつかる音、
ピンが倒れる音、
ワンワンと響く話し声、
物凄い喧噪である。
大きい音を嫌がって騒ぐ子もいたし、フロアを走り出す子もいた。
しかし、皆こばとの仲間だし、貸切状態なので、
親は気兼ねすることなくゲームに参加したり、顔見知りとおしゃべりしたりしていた。
そして、子どもの相手はスタッフがした。
子どもを飽きさせないため、1ゲームと2ゲームの間におやつと飲み物を用意し、
スタッフは親たちと話しながらおもてなしに追われた。
参加回数の多い高学年となると、さすがボウリングのルールも分かって来て
勝敗を気にするようにもなってくる。
投球した後、ボールの行く末をじっと見つめていたり、気持ちが体に現れる。
予約の時間が切れる頃2ゲームも終わり、順位発表、表彰式となる。
トロフィーと表彰状もちゃんと用意してある。
受け取る子どもの、驚いたような、誇らしげな顔。渡す私も喜色満面。
毎年、1,2,3位はほぼ高学年と相場が決まっていた。
ところが、ある年
初参加の1年生が1位をとった。しかもダントツのスコアで!!!
長くなったので詳しくは次回に。