満たされたい衝動
前記事とは別の
盗癖のある知的障害の女子に関わることになったいきさつ。
それはこばとの療育を始める前から繋がっているので、
ちょっと長い前置きになる。くどいかも。
読み飛ばしてもらってかまわないですよ。
私は戦後のベビーブーム世代、団塊世代。
続々建設される核家族向き団地に住んでいた時の事。
隣号室に次男と同い年の自閉症児男子がいた。(長男同志も同い年)
次男君は2才の頃には自閉の症状がはっきりして来て、
お母さんも対応に苦慮して、涙ぐんでいることが多くなった。
私も隣号室に駆けつけてはみるものの、
ただただ泣き叫ぶ自閉症次男君に何もしてやれなかった。
3男4男の双子を産んで8か月たった時、
障害児教育を勉強しようと、N女子大学の児童学科の通信教育に着手した。
最初の大学は某国立大学だったが、障がい児教育とは関係のない文学部。
通信で単位がだいぶ取れたので
最後の年は4年生に編入学して目白まで通学した。
3男4男は小学1年だった。
卒業した後、
教員免許をとったので、講師になって教育現場を経験した。
ことばの教室、小学校の普通級、養護学校(今の支援学校)、小学校の特殊学級(今の支援学級)など様々の教育現場で実践をつんだことが自分なりの療育につながった。
平成元年に海の家を時間借りして、自分の考えている療育を始めたわけだが
盗癖のある知的障害の女の子とのかかわりは
3年生の普通学級を担任したことにつながっている。
家庭訪問というものがあり、男子生徒の家を訪問したが、
子連れ同志の再婚家庭であることが分かった。
母親は3年生男子生徒と兄の2人連れ、父親は1人の娘連れだった。
父親は娘を溺愛していた。
建築関係の会社の社長だった父親は、増えた家族のために
大きな家を新築したばかりだった。
子連れ再婚の夫婦は、私にはなんか~水と油ぐらい親和性が感じられなかった。
私が療育を始めてしばらくして、お母さんから相談を受けた。
父親の連れ子の娘は知的障害なので療育を受けさせたいと言ってきた。
お母さんは角ばった、きつい感じの顔で痩せている人だったが、
父親の連れ子の娘の面倒はよく見ているようだった。
過去に担任した男子生徒の妹でもあるので、すぐにOKした。
娘はおとなしく、知性は感じられないがかわいい、
美人の部類の子だった。
極端に無口ではあった。
学習は噛んで砕いて、教えていけば少しずつ伸びていった。
高学年になる頃、お母さんから彼女の盗癖について相談された。
お店から物を盗んでくる。
父親の連れ子の娘は、欲しいわけでもないようなものを万引きしてくる。
およそ女の子に似つかわしくない、釘だとかの金物・・・
物をバレバレに店から持ち出すのですぐに見つかり連絡が来る。
困っている。
女の子が欲しがるようなものではない、のも継母を困惑させていた。
父親は娘を溺愛していたが、
お母さん(継母)は愛情というより、責任上世話している感じもみえた。
万引きに関してきつく注意はしていたろうが、繰り返された。
継母は娘の気持ちを聞き出そうという感じはなく、
娘も自分の気持ちを言葉にして言えるような語彙力はなかった。
無口の方だった。問い詰められるとすぐ黙ってしまう。
盗癖相談からしばらくして、夕方遅く娘が行方不明になった、と連絡があった。
私も女の子が行きそうなところは心当たりがなかった。
多動なタイプではないし、一人歩きもできている。
見つかった!と連絡があった。
娘はは家の前の道を、ただただ真っ直ぐに進み続け
どんどん人家から離れて、
ひたすら山の方に向かって歩いていたところを発見された。
何を思って、何を考えて歩いていたのだろうか。
うつむき加減にひたすら歩いている彼女の姿を想像すると
やるせなかった。
それからしばらくして、夫婦は離婚した。
娘の名前はゆきな。
父親の仕事道具の中にありそうなものばかりを万引きする。
彼女の盗癖、万引きもSOS、たすけてサインだったかもしれない。
何もしてやることが出来なかった。
療育に通っている子の親から、家庭問題を相談されることも多かったが、
療育のようにはいかない、
最後は両親の問題という無力感はあったなぁ。
私も人と付き合うのが苦手で、友達もいないが、
他の機関とはつながらず、孤立無援?
(というより自分のやりたいようにやる)療育をしてきた。
もっといろんな人、機関とつながって、
幅広く子どもを支援すればよかったのかもしれない。
いまさら遅いが。
これからは療育だけでなく、家庭の支援も含めた環境を作っていく事が
求められる時代なんだろうなぁ。