自閉症の世界

~自閉症の世界を知って、障がい児の子育てに役立てよう~

それぞれの療育

療育方法は国それぞれ!!

 

こばとが8人スタッフ体制(私もその中の一人)でやっていた時期

海外からの帰国児も多くいた。

 

海外の留学や赴任は

子どもが小学校に入学する前が都合がよいということなのか

医師や上級国家公務員、グローバルな会社に勤めている父親が多かった。

 

ちょうど、子どもが言語を獲得する2才かから4歳ぐらいまでの海外生活。

発達障がい・コミュニケーション障がいを持つ子は

日本語も英語も十分に獲得できないで帰国してしまう。

 

3才でアメリカから帰国した男児のお父さんも医師。

ニューヨーク州のカナダに近い都市に住んで、

1歳半からナーサリーに通っていた。

2歳のころから反応がなくなり、食事も豆腐とごはんしか食べなくなった。

ナーサリーの先生が日本語で話しかけてくれても反応無。

ナーサリーは半年で止めてしまった。

しかし、担当してくれた先生に町であった時、

「ハオー、ハオー」と言って先生に抱きついたそう。

お母さんは覚えていたことに感動したと言っていた。

 

3歳でこばとに来た時、言葉は無かった。

自閉の症状はあまり強くはなかったが

お母さんは男児の癇癪やお母さんに対する暴力に困っていた。

彼は思いが伝わらないことのいら立ちを母親にぶつけていたようだ。

 

自閉性も少なく、着席も続いた彼は

こばとの療育課題をスポンジのように吸収し、

半年後には簡単な言葉で思いを伝えられるようになり、

母に暴力を振るうこともなくなった。

 

普通級に進んだ彼は2年の時、

<僕は普通になった>と自分から宣言し、こばとをやめた。

中学生になった頃受け取った、お母さんの年賀状には

順調に学校生活を送っていて、成績はかなり優秀だと書いてあった。

 

彼は、アメリカではナーサリーには通ったが、療育は受けてこなかったので、

こばとの療育が入りやすくて、発語がでたあとは順調だった。

 

 

アメリカの療育を受けて帰ってきた子どもも何人かいた。

 

4才でこばとの幼児教室に来た女児は

人形のような愛らしい大きな瞳だった。

言葉はなかったが、目もよく合い、人を避ける様子もなかった。

 

しかし、着席させようとしたり、何かをさせようとする時の逃げが多かった。

逃げ方も磨きがかかっていて、するりと身をかわしたり、

抱きとめようとすると体をよじって、腕の中から逃げてしまうのだ。

自分のやりたいことやりたいようやっているぶんには楽しげだった。

 

ブロックをカチカチ鳴らしたり、針金ハンガーを繋げてぶらさげたり・・・

 

お母さんはアメリカでの療育で、ABA(応用行動分析学)をやり、

あ・い・う・え・おは発声した、と言った。

 

しかし、こばとに来た時の女児の口からは

<あ>の一音の発声も、オウム返しもなかった。

 

<逃げ>の巧みさや、自分の欲しいものを取ったり、やったりする時の

素早過ぎる行動を見ていると、

抑え込みがよっぽど強かったんだろうなぁ、と思わされた。

 

女児は1年間就学猶予をし、

こばとが療育から撤退する最後の年まで

3年間在籍して支援学校に入学した。

入学するまでには着席も続くようになり、

介助されつつもえんぴつを持って紙に向かったり、

はさみをつかったりして制作するようになっていた。

発語らしい音は出なかったが、その場に立って待っていたり

ちゃんと頭を下げてお辞儀をするようになっていた。

 

アメリカの療育はきついのかなぁと思わされた子が他にもいた。

 

就学1年前に帰国した男児は軽度の自閉症児ではあった

着席は出来たが、自分のできない、やりたくない課題の時は大声を出して騒いだ。

いつも「ペーパー、プリーズ!!!!」と騒いだので

アメリカでの療育の一端を垣間見る思いがした。

 

日本語で簡単な会話ならできるようになり、学習もそこそこ進んで、

ご両親はためらわず普通級を選択し、入学をさせた。

男児は日常的に英語をしゃべることはなかったが、咄嗟の時は英語が出た。

見事にネエィティブの発音で・・・。

こばとの教室で初めて会った同い年の子どもに

「ゥワッツ チュァ ネー???。」

合宿で友達と同じジュースの取り合いになり

ッツ マイン!!!

と叫んで譲らなかった。

 

彼は軽度ではあったが、言葉の理解で越えられない壁があり、

高学年になると普通学級では厳しくなった。

東京に転校後、中学は武蔵野東学園に入学したと聞いた。

 

 

アメリカで療育を受け、就学前に帰ってきた女児も対応が難しかった。

 

何かをさせられることに対して拒否が強く、介助されることをいやがった。

高すぎるプライド。

こばとに来たばかりの時は教室に入ることも嫌がり、

私と手をつなぎ、こばとのある区画をぐるぐる散歩して終わり、

ということもあった。

 

日本語は簡単な単語が言えたが、イントネーションは英語っぽかった。

アンパンマンのキャラクターを上手に描く子だった。

彼女もそれが得意で褒められると嬉しそうだった。

 

しかし、自分が出来ない、むずかしい課題だと顔色が変わった。

 

頭突きをする自傷行為があった。

頭突きをしそうな時、目つきも変わり、左目が上のほうにずれて

斜視のように斜め上にあがってしまうので分かりやすかった。

その予兆がでた時はスタッフは課題を優しいもにに変えたり

彼女の肩を抱いて一緒に深呼吸をした。いーち、にー・・・と数唱しながら。

それでも止めきれない時もあった。

 

日本語のイントネーションはちょっと、ん?だったが、

数唱や簡単な英単語を言わせると発音は完璧ネィティブだった。

 

彼女は自分が出来ないということが嫌だった。

一番驚いたのは自転車の練習だった。

介助しなければとても乗れるレベルでないのに、

介助をはげしく拒否したのでスタッフは見守るしかなかった。

他児が自転車練習を終わって教室に帰っても

1人、自転車にまたがり漕ぎだしの動作をしたり

ハンドルを握ったまま空をにらんでいたりしていた。頃合いを見て引き揚げさせた。

他児よりは何倍も何倍も時間がかかったけど、

なんとなんと乗れるようになっていった。

 

介助なしで一人で乗れるようになったのは彼女一人だ。

 

皆よりできないということに彼女のプライド耐えられないだろうと助言はしたが、

中学校はお母さんの希望でレベルのたかい支援級に進んだ。

案の定、収まっていた頭突きが頻発すようになったことを

同じ中学校に通うこばとの同級生から聞いた。

 

彼女はほどなく支援学校に転校した。

支援学校では彼女はよくできる生徒と言う立ち位置になり、

プライドは満たされたようだ。

支援学校の訪問者にネィテブ発音の英語であいさつしたりして

生き生きとするようになったそうだ。皆、彼女の発音に驚いて褒めるので。

 

支援学校卒業後両親は離婚し、医師の父親が彼女を引き取り、

弟妹は母親が引き取った。

母親とはよく会っているらしい。戸籍上の縁が切れただけかも。

 

 

他所で療育を受けて来るより、

真っ白な状態(赤ん坊状態)で来てくれた方がこばととしてはやりやすかった。

なので、2歳から受け入れていた。

 

どこでこばとの事を知ったのか、わからないが

アメリカからメールをもらったこともある。

 

アメリカで生まれた長男が自閉症と診断された。

2才になったら日本に帰る、実家がこばとと同じ県、

しかも隣接する区なので通いたいと。

 

帰国後すぐ、お母さんは療育を申し込んできた。

初回面談の日、長男君は大きな瞳に涙を浮かげて固まっていた。

多動ではなかったが、おむつはとれていなかった。

お母さんは「泣いてばかりいるんです。」と言った。

 

言葉はなかったが視覚認知はよく、着席も続き、手元目線も良かった。

 

まっさらで手つかずからのスタート。

こばとの療育の吸収は良かった。

攻撃的な所や拒絶的言動もなく、アスぺルガー症候群の男児だった。

 

小学校入学までにひらがな・カタカナ・足し算・引き算も習得した。

小学校は普通級に入った。

しかし、入学後行動面ではあまりずれなかったが、

担任や友達から<~さん>の言い方が変だ。

つまりさ行音がきれいでないと指摘されたので、

療育は終了していたが言語訓練にまた半年ほどこばとに通った。

 

算数はいいが、国語はちょっと・・・とお母さんは言っていた。

今はお受験の塾にかよっているとか。

 

いろんな国でそれぞれの療育があるだろうが、

幼児期に抑え込みが強い、きつい療育を受けると

逃げや、大声だしを誘発してしまうようだ。

 

いや、国によらず幼児期の療育に関わる人間が一番心すべきことなのだろう。

 

 

 

f:id:kobatokoba:20200819131814j:plain

「ごはん!!」と言ってます。