お葬式 その1の続き
働き盛りに胃癌になった。
発病1年前ぐらいの頃、何か予感することがあったのか
男児を連れていろいろな所に出かけて思い出作りをしていた。
靴の会社に勤めていたお父さんは、
お母さんの重度字育児の心身の負担を減らそうという思いからか、
会社の休みの日を息子がこばとに来る日に合わせ、送迎をしていた。
療育の日、息子をこばとのスタッフに預けると、
西千葉の駅前にあったパチンコ店で時間を潰し、
療育時間が終わる頃に迎えに来た。
お父さんにとっては安心してのんびりできる楽しみの時間だったようだ。
発病し、癌とわかってからあまり長くなかった。
亡くなったという電話を受けて、すぐに病院に駆け付けた。
男児を見守っているために・・・。
私も男児の手を繋いで、身内の人と一緒に
霊安室にいるお父さんに別れを言いに入室した。
男児は死を理解しておらず、はしゃいでいた。
「きっと、お父さんの魂は病室の天井あたりにいて、見ているんだろうね。」
と洟をすすり上げながらお母さんと話したのを思い出す。
お通夜・葬儀の日、お母さんはとても男児の世話は出来ないだろうから
私が男児の面倒を見ることにした。
葬儀会館での葬儀は他家の葬儀とも重なり、混んでいた。
私は男児と手を繋いであちこちを歩き回り、時々式場を覗きに
戻ったりして時間をつぶした。
お父さんの死を覚悟していたお母さんは
葬儀後、息子と二人で自立して暮らすための行動をすぐ起こした。
お父さんの残してくれた資金で生活に基盤をつくった。
さらにすごいなと思ったことは
障がい児の母親も働けるよう、放課後ルームを立ち上げたことだ。
現在の放課後ディサービスの先駆けだった。
こばとに来なくなっても時々様子を聞いた。
思春期は大変だったようだ。
今はもう30代に近いかな・・・
くも膜下出血で亡くなったお母さんの他にも、
若くして亡くなったお母さんがいた。
口数が少なく、太ってはいたが
笑顔が明るく、病を抱えているようには見えなかった。
娘が二人、次女が小学校1年の時からこばとに通って来ていた。
お父さんも協力的で、こばとの送迎をしてくれていた。
次女は肥満気味だったが自閉症状は少なく、
簡単な会話も成り立ってはいたが、知的障がいは重めだった。
お母さんが亡くなったのは次女が小学校の高学年の時。
葬儀は神式で私は初めて見たお葬式だった。
祭壇や飾りつけも、普通のお葬式とは雰囲気が違っていた。
神主さんがぽっくっりのような履物を穿き、祝詞のようなお祈りをよみあげていた。
お父さんの職業は聞いていなかったが、
神社に関係のある人だったかもしれない。
参列した私やこばとスタッフは次女と一緒に
棺の中のお母さんを覗き込み、お別れをした。
次女はお母さんに、悲しみなど感じられない大きな声で、
また明日にでも会うような別れの挨拶をしていた。
それから次女はこばとには来なくなったが、
お姉さんとお父さんがいたので大丈夫だったろう。
片手に不自由さがあったが、
仕事はやっているだろうか・・・・・
心残りの葬儀もある。
お葬式で子どもの顔も見ずにさよならをするというのも
なんかとても寂しく虚しい気持ちがした。
幼児教室から来ていた女児は
外界への反応が乏しい、目が合いにくい、言葉の遅れなど
自閉症状に近いものがあったが、知的障害は重いものがあった。
顔もかわいいとは言い難かった。
正式の診断は受けておらず、公的機関で相談したのみだった。
私は見た所レッド症候群に近いのではと思った。
手を合わせる手もみ、手絞り様の動作など特有の常同行動が見られた。
手のひらをお椀の形にして水をためさせ、顔を洗わせようとすると
どうしても手の水をなめようとして、
手を目元まで上げることが出来なかった。
介助して手を目元に持って行かせようとしたのだが
まるで、ロックがかかっているようで、口より上にあがらなかった。
地元意識の強い両親は小学校は地元の普通級に入学させた。
私はただ座っているだけになるのではないか、と言ったが、
お母さんは地元だし、お兄ちゃんも通っているし
学校も理解して対応してくれると言っていた。
通学路の途中に踏み切りがったので登下校はお母さんが送迎していた。
2年生の時には踏切の手前まで一人で帰ってこれるようになった。
母親の話によると、事故のあったその日
女児の下校時間に来客があり、迎えに行くのが遅くなってしまった。
間が悪いいことに、
女児が踏切についた時と電車の通過時間が重なっってしまった。
目撃者からお母さんは話を聞いた。
女児は降りかけた遮断機の中に入ってしまった。
見かけた人が大声で出るように言ったが
女児は遮断機の内側で固まったままだった。
電車は停車が間に合わず通過した。
女児に外傷はなかったが
電車の風圧で飛ばされた。
お母さんから事故の状況を聞いた。
悲しみの色は顔に出さず
みんなに可愛がられているうちでよかったかもしれない。
大きくなって苦労するよりも、とお母さんは言った。
お父さんの方が娘の喪失に打ちのめされているようだった。
地元の家だったのでお葬式は自宅であげた。。
しかし、狭い家の中には身内しか入れなかった。
小学校のクラスメイトも、我々こばとのスタッフも外に立って
出棺を見送っただけだった。
女児と別れの挨拶は出来なかったが、出棺後お線香だけあげて来た。
それにしても顔も見ずに出棺だけ見送るとは・・
家でなくもっと広い所でやれば
クラスメイトも女児の顔を見て別れを言えたのに。
残念なお葬式だった。
大きな葬儀会館の家族葬にも参列したことがあった。
ある日突然、こばと卒業生女子の叔母にあたる人から
葬儀の最中だという電話を貰った。
こばとから普段着のまま駆けつけた。
亡くなった女子は二十歳前だった。
棺の中の彼女は薄く化粧をし、成人式で切る予定の晴れ着を着ていた。
「もう頑張らなくていい、と言ったの。」と、
叔母にあたる女性は悲しみより、穏やかなほっとした顔をしていた。
闘病が大変だったのだろう。
家庭を持って祖母と同居していた彼女は、
母親代わりになって姉の娘を育てた。
実母の姉には知的障がいがあった。
仲居のような仕事をしていた時生まれた娘を連れて実家に戻ったのだった。
知的障がいの姉の娘にも知的障害があった。
妹家族にも子どもがいたが、我が子とかわることなく育てた。
女児は小学校入学前から叔母がこばとの療育に連れて来ていた。
顔は美形ではなかったがいつも小奇麗な恰好をさせ、
髪型可愛くし、飾りもいろいろつけていた。
始めの頃は叔母が連れて来ていたが
しばらくすると知的障がいのある実母が連れて来るようになった。
ある時、いつまで待っても実母は迎えに来なかった。
お家に電話すると叔母がびっくりして迎えに来たが、
実母は家を出て行ったとのことだった。
昔から、時々ふらっといなくなることがあったそうだ。
女児はその後も祖母と妹家族に愛情深く育てられたが
中学生後半から不安定になることが増えた。
支援学校の高等部に上がった頃から精神のバランスがくずれていった。
学校終了後はあまり連絡を取ることもなかった。
電話があったのは葬儀場からだった。
母親代わりの叔母がこばとを思い出して、
式場から電話をしてきたようだった。
家族葬の部屋は暖かい雰囲気があった。
会えてよかった。
こばとに来ていた頃と変わらない顔の彼女は
晴着を着て穏やかに眠っていた。
こばとは彼女の人生の半分を伴走したんだなぁ、と胸がつまった。
死は避けがたい。
こばとを離れてから亡くなった保護者の話も千の風に乗って聞こえくる。
私もいつか千の風になってこともたちの様子を見て回るだろう。